北尾吉孝日記

『真善美を探究する』

2020年12月2日 17:20
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災難も幸運も試練であり感謝して受け止める。全てを良い方向に進めて行こうという宇宙の想念と合致した行動を続ければ成功する。常に利他の心で臨めば他力の風が吹く。人生の目的は美しい魂を磨き、人格を高め、真善美を探究すること。人生はそのための道場だ。 #レオ財団 #稲盛和夫氏講演レビュー――之は半年程前、中川暢三さん(@Chozo_Nakagawa)がツイートされたものです。
国語辞書を見ますと、真善美とは「認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値をいう」と書かれています。此の真善美にしろ知情意にしろ、人間その全てをある種バランスをとりながら追求して行かねばならないのだろうと思います。即ち、知情意で言えば「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」(『草枕』)ということで、中々このバランスをとらないと難しいわけです。私は真善美もある面で、そういう性質のものではないかと思っています。
例えば、善というのは「衆善奉行…しゅぜんぶぎょう」という仏語で善を勧めるのだけれども、時として何が善で何が悪かも非常に分かりづらい側面がありましょう。「悪法も又法なり…たとえ悪い法律であっても、法は法であるから、廃止されない限りは、守らなければならない」と言って死んで行く人もいます。果たして如何なる意味で善なのかは、判断自体が極めて難しいことだと言えないでもなく、様々な事柄全体を考えてみますと、一体何が本当に正しくて何が正しくないのか、良く分からない部分があるようにも思われます。
美というのも之また、厄介な問題です。皆夫々に美意識が違う中で、共通した美はあるのでしょうか。コンテンポラリーで例示すれば、草間彌生さんのカボチャの絵を見ていて、「全く分からない。何も良いとは思わないなぁ」と言う人が結構いることも事実です。他方「素晴らしい絵だ」としてちゃんと値段が付いて行き、コンテンポラリーの範疇の一つに相応しいと思う人もいるわけです。同じことが生き方についても言えましょう。ある生き方が美しいと感じられるか否かは、人夫々です。美とは一面、こういうものであります。
あるいは、真というのも常に変わります。例えば、拙著『強運をつくる干支の知恵[増補版]』第一章で詳述した通り、中国は長い間「陰陽五行説」が真理だと思ってきました。「五行」とは万物を生ずる根元となる五元素(木、火、土、金、水)で、あらゆるものはこれらから成るという説です。何ゆえ中国古代人が元素を五種としたかと言うと、宇宙には「天」と「地」があり、天には五惑星(木星、火星、土星、金星、水星)があるように、それらに対応するものとして地には五元素があると考えたからです。
此の五惑星としたのは当時、古代人が肉眼で捉えられたのが5つの惑星だけだったからです。ところが現在では土星より遙かに遠い太陽の惑星である「天王星」「海王星」更には「冥王星」が順次発見され、また物質面では既に120種近い元素が発見された時代を迎え、五行説は非合理の遺物となったわけです。従って真というのも捕え所のない、ある意味大変難しい性質があると思います。
以上より真善美を追求すると言っても結局のところ、最後は人間としての良心を信じて生きることでしかないものだと言えるのかもしれません。『大学』に「明徳を明らかにする…自分の心に生まれ持っている良心を明らかにする」とあるように、人間である以上みな良心というか明徳というものがあるわけですから、やはり最終的には此の明徳に頼って自分の良心の声を聞き、そして自問自答する中で物事を判断するしかないのだろうと思います。
人間として生まれ天から与えられた使命を持ち、その使命を自覚し果たそうという努力と、それによる成果こそが人間として価値あることではないでしょうか。そして個々人夫々の様々な使命は時として、真や善や美の実現に繋がっているということです。絶対的な真や善や美を追求するのではありません。時々に色々やりながら妥協点を見出すけれども自らの良心に根差し真善美のバランスをとって行く、というような生き方でしかないのだろうと思います。




 

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