北尾吉孝日記

『信仰を持つ』

2021年8月26日 16:20
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『何のために働くのか』(拙著)第4章『「運」と「機」を味方につける』冒頭部で、私は次のように述べました――事業において行動に移すときは、その動機が社会的に正しいものなのかどうかを見極めるとともに、動くタイミングも見極める必要があります。(中略)この「機」をきちんとつかまないと、何事もうまくいかないと思います。そこを外すと物事が生きてこないというような一点を「機」といいます。ともすると私たちは「運」ばかりを大事なものだと考えがちですが、「機」も同じように大事なのです。
運と機を判断する必要性は、自分自身についても言えることです。自分の運と機が未来永劫まで強いわけではありません。そのチェックの仕方につき、小生の一例を上記書で御紹介しました――私の場合は、それを「ソリティア」というパソコンのトランプゲームで計っています。一から順番にカードを並べていって、最終的に十三まで積み上げれば上がりというゲームです。これを毎朝、三回勝負をして、その日の「運」と「機」を占っています。
私共の仕事にマーケットが関与することが多い上、人間にはバイオリズムというものがあります。そしてマーケットがどんどん変化する中、社会のバイオリズムというものもあります。そうした全体を見る一つの手段として、私はソリティアを何時もやっています。それは私自身が人知を超える何かを信じており、一ゲームを通じ与えられた示唆は天意の一つのあらわれ方かもしれないと思うからです。
合理的判断を様々重ねても甲乙付け難いような難題を前にして、如何に断を下して行くかということです。例えば古代中国の『「殷」は、雨乞から戦争の時期まであらゆることを文字を刻んだ甲羅や骨のヒビ割れで占った』とされています。『強運をつくる干支の知恵[増補版]』(拙著)にも書いた通り、干支学は中国古代人から現在に至るまでの何千年にも及ぶ自然から学んだ知恵と歴史的観察の集積であり、統計上の確率や蓋然性に基づいて帰納的に生み出されたものであります。『易経』でもそうですが、一種の占いめいた事が多くの頭脳・経験等々踏まえて出来、活用されているわけです。
嘗て李登輝氏が台湾総統であった時、国家的困難に当っては聖書を何の気なしにパッと開いてみると何時もそこに答えがあった、というふうに彼は自身の著書で回想し信仰の大切さを指摘しています。あるいは、調べ物に思いぷらっと本屋に立ち寄るとそれにピタッと合うような本が目に留まるとか、困り果てて何か打開策はないかと色々考えている時に救いになるような人に出会すとか、偶然の為せる業の結果として様々な事柄が解決できるという部分も之また不思議と必ずあるわけです。だから、私は判断の一助としてソリティアを用い、天を相手にして物事を決めているのです。
上記は信じるか信じないかの世界ですから、「そんな非科学的に考えるのは嫌だ、自分は自分の判断で行く」等と否定する人も勿論いるでしょう。無宗教者もいるわけで、それはそれで良いと思います。しかし、そこには大きな落とし穴があると思います。世界中多くの人が何等かの信仰を持っており、又それが一つの道徳観に繋がっているケースも数多あります。「君子に三畏(さんい)あり。天命を畏(おそ)れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る」(『論語』李氏第十六の八)と言いますが、信仰を持たない人はそうした一種の畏れを抱きながら己を律し、一人静かに改心しようと努めることが必要なのかもしれません。
最後に、安岡正篤著『易学入門』より次の言葉を御紹介しておきます。天そのものの存在を認めないがため天も天命も恐れることはないという人もいますが、我々が生きている此の現実世界では想像を遥かに超える現象が実際に沢山起きています――古代人はまづ天の無限なる偉大さに感じた。やがて、その測ることもできない創造変化の作用を見た。そしてだんだんその造化の中に複雑微妙な関係(數…すう)があること、それは違ふことのできない厳しいもの(法則・命令)であり、これに率(したが)ひ、これに服してゆかねば、生きてゆけないもの(道・理)であることを知つた。




 

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