北尾吉孝日記

『天職を得る』

2020年12月23日 17:05

先月16日、「天職を見つけたことを示す7つのサイン」と題された記事がフォーブスジャパンにありました。その7つのサインとは、①計画を達成するための行動を取ることができる、②仕事に集中できる、③他者の反対にも動じない、④自分には何かが達成できると感じている、⑤大きな成果が出せる、⑥幸せに感じる、⑦進捗を遂げている、とのことです。私として天職と思えるか否かは、心底その仕事を楽しんでやっているか否か、だと考えています。
論語』の「雍也第六の二十」に、「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」とあります。その仕事が好きなら良いかと言うとそうでもなくて、楽しむという境地に到達しているのが正に三昧の境地です。此の三昧の境地に入り朝から晩まで寝食忘れて一心不乱に打ち込めているならば、それは天職と言えるのではないかと思います。
孔子は、「憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将(まさ)に至らんとするを知らざるのみ」(『論語』)と言っています。之は、「物に感激しては食うことも忘れ、努力の中に楽しんで憂いを忘れ、年を取ることを知らない」といった意味になります。雑念を追っ払い何時も精神が潑剌(はつらつ)と躍動している中で、天と対峙するということに尽きると私は思っています。
仕事において若くして楽しむ境地に入るは、中々難しいことでしょう。最初の内は、全く楽しみを感じないかもしれません。しかし暫く経ってその仕事を深く知り段々と楽しくなってくることも数多あって、更にはそれこそ三昧の境地に入って行けるということもありましょう。
「素直であることが非常に大事だ」と松下幸之助さんが言われている通り、最初は何でも素直に受け入れてみて、与えられた仕事の意義を本当に理解しようと全身全霊を傾けて、簡単に諦めることなく突き詰めてとことんまでやり遂げてみるのです。その中で自分として「之をやらねばならない」「之はなさねばならない」といった気持ちが、必然的に湧いてくるものです。
そして次第に、之をやるのは自分自身の責務であるとの認識を深め、延いては自分自身の天命なのだという位に自覚するようになるのです。ですから、ある程度の期間その仕事をやってみた上で、天職かどうかを判断して行くべきだと思います。「10年やっても好きになれんわ!」ではしんどいかもしれませんが、3年やって直ぐ「もうつまらん!」と結論を下してしまうのも早計かもしれません。何れにしろ先ず大前提として、目の前に与えられた仕事に対し、一心不乱に取り組む姿勢を持ち続けることが肝要です。
佐藤一斎は『言志録』の中で、「人は須らく、自ら省察すべし。天、何の故に我が身を生み出し、我をして果たして何の用に供せしむる。我れ既に天物なれば、必ず天役あり。天役供せずんば、天の咎(とがめ)必ず至らん。省察して此に到れば則ち我が身の苟生すべからざるを知る」と言っています。
ここで言う「天役」とは、自分の天職と思える仕事を通じて天に仕えること、社会に貢献すること、即ち世のため人のために仕事をすることです。仕事を自分自身の金儲けのためや自分の生活の糧を得るためのものだと考えると、人生は詰まらないものになります。世のため人のためになることをするからこそ、そこに生き甲斐が生まれてくるのです。そして私は、自分の天分を全うする中でしか此の生き甲斐は得られない、と思っています。
『論語』の「尭曰第二十の五」に、「命を知らざれば以て君子たること無きなり」という孔子の言があります。己にどういう素質・能力があり、之を如何に開拓し自分をつくって行くかを学ぶのが、「命を知る」ということです。一角の人物になるためには、どうしても天命を知り、天職を得るような志を立てる必要があります。
それによって、最終的に「楽天知命…天を楽しみ命を知る、故に憂えず」という境地に到るのです。天命を悟り、それを楽しむ心構えが出来れば、人の心は楽になるという意味です。そうやって天に仕える身として常に自らの良心に背くことなく、社会の発展に尽くすべく仕事の中で世のため人のためを貫き通すのです。
最後に本ブログの締めとして、明治の知の巨人・安岡正篤先生の言葉を御紹介しておきます。次の言葉は、そのまま仕事を天職にして行く極意と言って良いでしょう――石川啄木の有名な歌の一つに、「快く我に働く仕事あれ、それをしとげて死なんと思ふ」というのがあります。人間は、ただ生きるというだけではつまらないことで、意義あり感激ある仕事に生きなければなりません(『心に響く言葉』)。




 

1995年より毎年実施されている恒例行事「今年の漢字」は本年26回目を迎え、本日14時京都の清水寺にて「その年の世相を表す漢字一字」の第1位が発表されます。今年は一体何が選ばれるのか、率直に申し上げて結構難しいと思います。
今月1日に発表された「2020ユーキャン新語・流行語大賞」の年間大賞は、「3密」でありました。此の新型コロナウイルスで言えば、「災」の字はあり得るかもしれません。「災」という字は2004年、2018年と2度選ばれていて、また過去3度(2000年、2012年、2016年)選ばれている「金」のような例もあるからです。
2020年を振り返っては様々イベントがあった中で、やはり世界中このコロナでごった返した年といった印象を持っています。今自分の頭に浮かぶのは『易経』の言葉、「窮すれば即ち変ず、変ずれば即ち通ず」です。
此の「変ず」という部分が大事です。窮があったらば、そこに新しい変化が生じて来、新しい道が開けて来ます。今回コロナを経て、例えば一極集中から多極分散へと社会がこれだけ大きく変じてきたわけです。従って、「変」という字も一つ「今年の漢字」としてあり得るのではないかと思います。
ちなみに、「変」の字は2008年に一度選ばれています。此の年は9月にリーマンショックが起こり、11月にバラク・オバマが大統領選で勝利しました。米国という国が行き詰まり、そこに変化の必要性が出て来た時に、天がその変化を「チェンジ(変革)」を訴えた黒人大統領という、正に変化の象徴のような形で託した年です。
あるいは、改むという意味では変革の「革」の字もあり得るかもしれません。『易経』に、「君子豹変す、小人は面を革む…君子とは自己革新を図り、小人は表面だけは改めるが、本質的には何の変化もない」とあります。
「豹」の毛は秋になると全て抜け替わり、一転してあの美しい模様が出て来ます。そのようなことから、「自己革新」「自己変革」といった意味になります。変化を如何なる形で受け止めて、どう処して行くかが大事なのです。
何れにせよ、「2020年を漢字一字で表すなら?」と問われれば、私自身は上記の通り、「窮すれば即ち変ず、変ずれば即ち通ず」のイメージから、「変」か「革」のどちらかが良いのではないかと答えます。皆さん、「今年の漢字」はズバリ何だと思われますか?




 

『真善美を探究する』

2020年12月2日 17:20

災難も幸運も試練であり感謝して受け止める。全てを良い方向に進めて行こうという宇宙の想念と合致した行動を続ければ成功する。常に利他の心で臨めば他力の風が吹く。人生の目的は美しい魂を磨き、人格を高め、真善美を探究すること。人生はそのための道場だ。 #レオ財団 #稲盛和夫氏講演レビュー――之は半年程前、中川暢三さん(@Chozo_Nakagawa)がツイートされたものです。
国語辞書を見ますと、真善美とは「認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値をいう」と書かれています。此の真善美にしろ知情意にしろ、人間その全てをある種バランスをとりながら追求して行かねばならないのだろうと思います。即ち、知情意で言えば「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」(『草枕』)ということで、中々このバランスをとらないと難しいわけです。私は真善美もある面で、そういう性質のものではないかと思っています。
例えば、善というのは「衆善奉行…しゅぜんぶぎょう」という仏語で善を勧めるのだけれども、時として何が善で何が悪かも非常に分かりづらい側面がありましょう。「悪法も又法なり…たとえ悪い法律であっても、法は法であるから、廃止されない限りは、守らなければならない」と言って死んで行く人もいます。果たして如何なる意味で善なのかは、判断自体が極めて難しいことだと言えないでもなく、様々な事柄全体を考えてみますと、一体何が本当に正しくて何が正しくないのか、良く分からない部分があるようにも思われます。
美というのも之また、厄介な問題です。皆夫々に美意識が違う中で、共通した美はあるのでしょうか。コンテンポラリーで例示すれば、草間彌生さんのカボチャの絵を見ていて、「全く分からない。何も良いとは思わないなぁ」と言う人が結構いることも事実です。他方「素晴らしい絵だ」としてちゃんと値段が付いて行き、コンテンポラリーの範疇の一つに相応しいと思う人もいるわけです。同じことが生き方についても言えましょう。ある生き方が美しいと感じられるか否かは、人夫々です。美とは一面、こういうものであります。
あるいは、真というのも常に変わります。例えば、拙著『強運をつくる干支の知恵[増補版]』第一章で詳述した通り、中国は長い間「陰陽五行説」が真理だと思ってきました。「五行」とは万物を生ずる根元となる五元素(木、火、土、金、水)で、あらゆるものはこれらから成るという説です。何ゆえ中国古代人が元素を五種としたかと言うと、宇宙には「天」と「地」があり、天には五惑星(木星、火星、土星、金星、水星)があるように、それらに対応するものとして地には五元素があると考えたからです。
此の五惑星としたのは当時、古代人が肉眼で捉えられたのが5つの惑星だけだったからです。ところが現在では土星より遙かに遠い太陽の惑星である「天王星」「海王星」更には「冥王星」が順次発見され、また物質面では既に120種近い元素が発見された時代を迎え、五行説は非合理の遺物となったわけです。従って真というのも捕え所のない、ある意味大変難しい性質があると思います。
以上より真善美を追求すると言っても結局のところ、最後は人間としての良心を信じて生きることでしかないものだと言えるのかもしれません。『大学』に「明徳を明らかにする…自分の心に生まれ持っている良心を明らかにする」とあるように、人間である以上みな良心というか明徳というものがあるわけですから、やはり最終的には此の明徳に頼って自分の良心の声を聞き、そして自問自答する中で物事を判断するしかないのだろうと思います。
人間として生まれ天から与えられた使命を持ち、その使命を自覚し果たそうという努力と、それによる成果こそが人間として価値あることではないでしょうか。そして個々人夫々の様々な使命は時として、真や善や美の実現に繋がっているということです。絶対的な真や善や美を追求するのではありません。時々に色々やりながら妥協点を見出すけれども自らの良心に根差し真善美のバランスをとって行く、というような生き方でしかないのだろうと思います。




 
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