北尾吉孝日記

『人物の最も大事な徳』

2018年4月27日 17:45

明治の知の巨人・安岡正篤先生は、「人間が自然から生まれつきに与えられておる人間の本質的な要素。まず明暗、光と闇だ。人間は本質的に光を求め、闇を嫌うね。(中略)人間はどこまでも明るくなきゃならん。暗くてはいけない。これは本質中の本質、根本中の根本の徳だ」と言われています。
また「人間の徳性の中でも根本のものは、活々している、清新溌剌ということだ。いかなる場合にも、特に逆境・有事の時ほど活々していることが必要である」とも述べておられますが、人間やはり(元気の)気というか骨力というか、そういうものが非常に大事だと思います。
此の骨力(こつりょく)というのは、「男性に在っては千万人を敵とするの心。女性に在つては忍受」であり「人生の矛盾を燮理(しょうり:やわらげおさめること)する力」のことで、人間本来持っている生命力(…包容力・忍耐力・反省力・調和力)のようなものを指して言います。
5年程前のブログにも書いた通り、先ず人間というのは、気が漲って元気な状況を保ちながら夢や理想を持たねばならず、そうして出てきた夢や理想が志となって、その志を達する為に節操が入って志操になり、そして究極的には何かリズミカルになって風韻を発するかの如き格調高い人間になれるわけです。之は換言すれば人間の品位であり、人間の完成系ではそうした風韻の類が感ぜられるようなるのだと思います。
それからもう一つ、安岡先生は人生を生きる上で大事な3つのことに、「心中常に喜神を含むこと」「心中絶えず感謝の念を含むこと」「常に陰徳を志すこと」として、喜神を持つことを第一に説かれています。曰く「喜神を含むとは、どういう立場に立たされようと、それに心を乱されることなく、心の奥深い部分にいつも喜びの気持ちを抱いてことに当たれば、どんな運勢でも開けないものはなく、上昇気流に乗ったように開けていくという意味」とのことです。
溌剌とした明るさというものには、人を感化する上でも人を元気にさせる力があるわけです。取り分けリーダーシップを執るような人は発光体であり続けねばならず、明るくなければその責任を果たし得ないと言えるのかもしれません。そしてリーダーのみならず、人間にとって明るい心、喜神を常に持つとは大変重要だと思います。
昔し、小生のことを可愛がってくれた人に、八尋俊邦さんという方がおられました。三井物産で社長、会長を務められた方です。八尋さんは「ネアカ、のびのび、へこたれず」という名言を残されています。ネアカとはリーダーに限らず、大切なことだと思います。




 

『相対観から解脱する』

2018年4月17日 15:05

ひと月半程前『「人の成功を素直に喜べる」人は、何が違うのだろうか』と題されたブログ記事がありました。結論から言えば、人の成功を素直に喜べない人は、日頃からあらゆる事柄を相対観で捉えている人だと思います。
私などは相対観で物を考えないよう心掛けてきていますから、他の人々の小事を含めノーベル賞等の人類社会の進歩発展に多大なる貢献を果たすアチーブメントに対し、良いものは良いと純粋に嬉しく思います。之は、当たり前と言えば当たり前の話でしょう。
他方、昔から「他人の失敗は蜜の味」という言葉もありますが、人の成功を妬んだり人の失敗を喜んだりするような人が世の中には結構います。そういう人は常に物事を相対比較して、「自分が上なのか下なのか」「自分にとってプラスかマイナスか」といった物差しで全てを推し量って行くわけです。
例えば明治の知の巨人・森信三先生は、あらゆる苦は相対観から出発すると述べられます。「あの人はどの学校を卒業した/私はこんな学校しか出ていない」「あの人は金持ちだ/私は貧乏だ」「あの人は美しい/私はブス」「あの人は賢い/自分は愚かだ」---そうした相対観が如何に虚しいものかを知れば、人間の苦はなくなると言われるのです。「賢愚一如」という言葉がありますが、我々人間を創りたもうた絶対神から見れば、人間の知恵の差など所詮微々たるものであり、人間の差などというものは意味がないのです。
相対比較の中でしか自分の幸せを感ずることが出来ず、その相対的な幸せを得る上での妨げとなる人物に比し自分を卑下したり、恨み等の感情を抱くといった具合に、相対的な価値観の中で生きている人の心には一生安らぎは訪れ得ません。自分を楽にし自分の品性の向上に繋げる上で、相対観から解脱して行くことが私は非常に大事だと思います。
相対観からの解脱をもう少し考えて見ますと、例えば福澤諭吉の言葉に「独立自尊」とあります。独立とは「自らの頭で考え判断するための知力を備えることにより、精神的に自立する」ということで、自尊とは平たく言えば「自らの品格を保つということ」です。
人に依存したり媚び諂ったりせずに自分で主体性を確立し世のため人のために生きている人であれば、他人が立派なことをやったら「あぁ、これは偉い」と素直に見るものでしょう。相対観がため他者を怪しからんと言うのは、全くナンセンスで馬鹿げていると思います。




 

『日本の大学生に思う』

2018年4月11日 16:45

心理学者の榎本博明氏に拠ると、最近の大学生には『「内向的」「情緒不安定」「引っ込み思案」などの言葉が通じなくなってきている』ようで、「多くの大学教員が、学生に対して心理検査やアンケート調査ができなくなってきたというが、それは質問項目の意味がわからないという学生が増えてきたからといわれている」とのことです。
日本の大学というのは入学時点で勉強を終えたと考える学生が非常に多く、アルバイトや遊ぶ為に大学に入っているといった状況です。大学本来の姿とは言うまでもなく、学生の本分は学業に徹し、勉学を通じ学生諸君が互いに切磋琢磨しながら知性を磨き合い、その中でまた人間力も併せて磨くことにあると思います。
SBIグループの新卒採用では私が全て最終面接を行っていますが、「大学に入って何をし、何を学んだか」と聞くと、その殆どがアルバイトとサークルの話です。「学業中に○○を身に付けました」と発言する人は全くと言って良い程おらず、「一体何の為に大学へ入ったのかなぁ」と思うような低レベルの学生が大変多く見受けられます。
スポーツで言っても、体育会に入り本格的に鍛えたということであれば、それはそれでそれなりに人格と体力の錬磨にプラスになる部分も多々あると思います。しかし、テニス等の社交的倶楽部の類に入り、そして暇があれば雀荘に通い詰め、どれだけ稼いだ・儲けたと浮かれているようでは御話になりません。
大学とは最高学府(…最も程度の高い学問を学ぶ学校)であるとの認識の下、夫々の分野で専門知識を身に付けると共に、一般的な教養を深め多いに読書を様々しながら知を磨いて行かねばなりません。明治の知の巨人・安岡正篤先生が言われる長期的・多面的・根本的に物事を見るといった物の見方・考え方を養い視野を広げるのが、正に大学という場でありましょう。
大学の授業料だけでなく、生活費や小遣いまでも親から貰っている学生が、何故アルバイトをしなければならないのでしょうか。アルバイトで遊ぶ金を作るなどして遊び、勉学に費やすべき時間が奪われてしまっているのです。此の類の学生は論外としても、学費を稼ぐ為どうしてもアルバイトをやらねばならない、といった学生も勿論いるでしょう。
しかし、そうした場合も私であれば「奨学金を幾つか取ったら間に合うのではないか」とか、「特待生になるべく死に物狂いで勉強すれば良いのではないか」とかと思います。大学を出たら幾らでも働けますから、私自身は学生時代アルバイトに価値を見出さず、唯の一度もアルバイトをしませんでした。
最近の大学生は、何ゆえ本分である学業に精一杯励まないのでしょうか。彼等がそうなる理由の一つとして、日本の小中高を通じての所謂「暗記教育」、暗記とテクニックで高得点を稼ぎ得る英国社数理中心のペーパー試験偏重体制が挙げられると思います。
要するに現代の教育システム下、記憶力だけが能力を図る唯一の尺度であるかの如き詰まらぬ受験勉強を経験してきたことに因るのではないでしょうか。大学に入れば、若者の知的好奇心をくすぐることのない面白くない勉強は終われりになってしまうのではないでしょうか。日本の教育体制の在り方として、オリジナリティや歴史観・世界観・人世観といったものを養い、物の見方・考え方を育てるようなものに変革して行かねば、根本的解決とはならないと思います。




 
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