北尾吉孝日記

『天の力を借りられる人』

2019年9月26日 15:15

株式会社致知出版社の代表取締役社長・藤尾秀昭さん曰く、「一代で偉業を成した人は皆、天の力を借りられた人である。エジソン然り二宮尊徳然り、松下幸之助氏も稲盛和夫氏もそうである。では、どういう人が天から力を借りられるのか。その第一条件はその人が自らの職業にどれだけの情熱を注いでいるか--この一点にあるように思える」とのことです。
此の情熱に関しては、拙著『人物をつくる―真の経営者に求められるもの』でも松下幸之助さんの挙げられる指導者の資質条件につき、次の通り述べました--松下さんの話では百二の資質が必要だということですけれども、指導者には非常にたくさんの資質条件が必要です。(中略)第一の資質条件は、熱意を持つということです。それも、誰にも劣らない最高の熱意を持つということです。知識や才能は、人に劣っても構いません。しかし、こと熱意に関する限り、指導者は誰にも勝る熱意を持たなければならないと僕は思います。
指導者になりたいと思う人は、情熱から全てが始まるということをよく理解しなければなりません。他方、情熱を持っていたら天の力が借りられるかと言えば、それはまた別の話です。それは、如何なる事柄に情熱を注いでいるか、が大事になると思います。世のため人のためになるに何かに対して情熱を燃やし、強い意志を持って是が非でも成し遂げようと取り組んでいる場合は、ひょっとしたら天の力を借りられるのかもしれません。
世の中には運だけで偉業を遂げたという人もいるかもしれませんが、そうした人は極々稀でその殆どは多くの人間の支えを受け社会から重用されて成功に至るものです。そして彼らの足跡を訪ねてみれば、決して私利私欲のためには生きていません。世のため人のため尽くす気持ちを常に失わずにいる人が、結局天より守られて後世に偉大な業績を残しているわけです。
「善因善果(ぜんいんぜんか)・悪因悪果(あくいんあっか)…良いことをやれば良い結果が生まれ悪いことをやれば悪い結果が生まれる」という禅語がありますが、その善い因とは一言で言えば正に此の「世のため人のため」であろうかと思います。社会正義に照らし合わせて正しい事柄を常日頃からやっているかどうか、そして毎日を私利私欲でなく世のため人のために生きているかどうか--天が味方するか否か或いは良き運を得るか否かは、己の人生態度に尽きているのではないか、という気がします。
善因善果が良い出会・良い機会に結び付きますと、結果として成功するといったことにもなって行きます。誠実に一生懸命やっていれば御縁を得た人等々から色々な形でサポートを享受できる可能性も出てきて、そういう中で天の配剤が働いているが如き印象を得る部分はあるのかもしれません。天が味方してくれているような気になるは大いに結構で、そうして継続して善行を施して行けば良いのです。
最後に本ブログの締めとして、松下幸之助さんの言葉を紹介しておきます。松下さんは松下電器産業を大正7年に創立されますが、昭和7年5月5日に真の使命を知ったとして、その日を「命知元年」と名付けられ、全従業員を集めて「所主告示」という次の一文を発表されました。
--凡(およ)そ生産の目的は我等生活用品の必需品の充実を足らしめ、而(しこう)してその生活内容を改善拡充せしめることをもってその主眼とするものであり、私の念願もまたここに存するものであります。我等が松下電器産業はかかる使命の達成をもって究極の目的とし、今後一層これに対して渾身(こんしん)の力を揮(ふる)い、一路邁進(まいしん)せんことを期する次第であります。
ここには金儲けのことなど一言も書かれておらず、述べておられるのは正に世のため人のためという想いのみです。自ら私心・我欲を振り払い心の曇りを消しながら、世のため人のためを貫き通しその職責を果たして行く中で、はじめて天の御助けというのは起こってくるものではないか、と私は思っています。




 

『実践力とは』

2019年9月12日 17:45

『論語』の中には、言だけで行動が伴わないことを戒める章句が沢山あります。例えば、拙著『ビジネスに活かす「論語」』では、「君子は言に訥(とつ)にして、行(こう)に敏ならんと欲す・・・君子は言葉にするよりも素早く実行できるようにしたいと望む」(里仁第四の二十四)、あるいは「子貢(しこう)、君子を問う。子曰く、先ず其の言を行い、而(しか)して後にこれに従う」(為政第二の十三)といった孔子の言を御紹介しました。
全くの言行不一致を繰り返す人、一言で言えば「言うだけ番長…言葉ばかりで結果が伴わない人」の類では御話になりません。しかし現実は由々しきもので、言うだけ番長で終わる人、また見識(…知識を踏まえ善悪の判断ができるようになった状態)はあるにせよ胆識(…勇気ある実行力を伴った見識)を有するに至らない人が非常に多いように思います。
明治の知の巨人・森信三先生も言われるように、「キレイごとの好きな人は、とかく実践力に欠けやすい。けだし、実践とはキレイごとだけではすまさず、どこか野暮ったくて時には泥くさい処を免れぬもの」であります。実践力とは結局、「言ったことをきちっとやり遂げる」「出来ないことを言わない」といったものです。Don’t tell me.Just show me…もう言うのは分かりました。貴方の行動で見せて下さい--之は私が何時も使うフレーズですが、概して知行合一的に物事を処理して行ける人は極めて少ないように思います。
では、如何なるやり方で実践力を得て行けば良いのでしょうか。例えば、私が私淑するもう一人の明治の知の巨人・安岡正篤先生は、『照心語録』の中で次の通り述べておられます--われわれの生きた悟り、心に閃(ひら)めく本当の智慧、或いは力強い実践力、行動力というようなものは、決してだらだらと概念や論理で説明された長ったらしい文章などによって得られるものではない。体験と精神のこめられておる極めて要約された片言隻句によって悟るのであり、又それを把握することによって行動するのであります。
安岡先生の此の言は全くその通りで、そうした片言隻句を頻繁に念仏のように唱えることで自身の習慣のように身に付けて行くことが一番大事だと思います。書に出ているような難しい事柄でなくて、日頃から何事も言は行に結び付けねば無意味だとして日々の生活の中で事上磨錬(じじょうまれん)して行くのです。
習慣また親の教えとして自分自身が小さい時からずっと、「言ったことはやる」「約束は守る」といった形でやり続けていると、知らず知らずの内に実践力も得られてくるものです。もっと言えば、自分自身に義務化して行く位の覚悟で以て物事を処理する仕方を習慣として身に付けて行く、ということではないでしょうか。その人の実践力の有無あるいは程度とは、そういった習慣が身に付いているかどうかだと私は思っています。




 

『天を信ずる』

2019年9月4日 16:45

明治・大正・昭和と生き抜いた日本が誇るべき偉大な哲学者であり教育者である森信三先生は、信というものに関し様々述べておられますが、一つに「信とは、人生のいかなる逆境も、わが為に神仏から与えられたものとして回避しない生の根本態度をいうのである」との言葉を残されています。私は、此の信とは言い換えれば、天に対する自分の信念だと思います。
例えば『論語』の「子罕(しかん)第九の五」に、「孔子一行が衛の国を出て陳の国へ向かう途上で、魯の国で一時期権勢を誇った陽貨という人物と間違われて陽貨に恨みを抱く匡(きょう)の人々に捕らえられてしまった時のエピソード」があります。
拘禁された孔子はその時、ひょっとしたら殺されるかもしれないといった中で、次のように言いました--文王(ぶんおう)既に没したれども、文茲(ここ)に在らずや。天の将(まさ)に斯(こ)の文を喪(ほろ)ぼさんとするや、後死(こうし)の者、斯の文に与(あず)かることを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人(きょうひと)其(そ)れ予(わ)れを如何(いかん)。
之は、「周の文王は既に亡くなっているが、彼の始めた文化は私が受け継いでいる。もし天が彼の始めた文化を滅ぼしてしまおうとお考えなら、そもそも私がそれを受け継げる道理が無い。しかし現に私がその文化を受け継いでいる以上は、匡の人々ごときが天に逆らって私をどうにかできるはずもない」といった意味になります。
あるいは、『論語』の「述而(じゅつじ)第七の二十二」に、孔子が宋の国の軍務大臣であった桓魋(かんたい)に命を狙われ、絶体絶命の危機に陥った時に発した言、「天、徳を予(われ)に生(な)せり。桓魋其れ予を如何せん」があります。
之は、「天は私に徳を授けてくださった。その徳を持つ私を、桓魋ごときが殺せるわけがない」といった意味になります。孔子はどれ程の窮地に追い込まれようとも、なお心の状態を平静に保つ、大変な肝が据わった人物だったのです。上記章句からも分かるように、孔子が如何なる時も「恒心…常に定まったぶれない正しい心」でいられたのは、天に対する絶対的な信頼感を有していたからでありましょう。
『論語』の中には、孔子が天に対しある意味絶対的な信を寄せていたと感じさせる言葉が沢山出てきます。「我を知る者は其れ天か」(憲問第十四の三十七)も、その一つです。ですから、孔子は「人生のいかなる逆境も、わが為に神仏から与えられたものとして回避しない」わけで、来たる大事に向け自分を鍛える為に天がそうしているだけのことだと捉えるのです。
これ正に『孟子』にある、「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志(しんし)を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓えせしめ、其の身を空乏にし、行ひ其の為すところに払乱(ふつらん)せしむ。心を動かし、性を忍び、その能(あた)はざる所を曾益(ぞうえき)せしむる所以(ゆえん)なり」ということです。人生には、予想もしないような困難に遭遇することがあります。そんな時に不遇を嘆くのではなく、天の与えたもうた試練と思い、そのままを素直に受け入れる、といった態度が一番良いのではないかと思っています。




 


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