北尾吉孝日記

『敬するから恥ずる』

2021年11月9日 15:10

アゴラにある記事『嫌われるおじさんと慕われるおじさんの差は「距離感」』(21年8月27日)は、冒頭次のような言葉で始められます――ビジネスをしていると、自分より年の若い人とコミュニケーションを取る機会がある。40歳を間近に控えた自分はまごうことなきおじさんなわけだが、特に若い人とのコミュニケーションにおいて気をつけているのは相手との「距離感」である。
そして筆者は「思うに、距離感がおかしな人の共通点として相手へのリスペクトが欠如しているのである。相手が自分より格下だと判断して態度を変えてしまう。そのような稚拙なメンタリティこそが、嫌われるおじさんを作り出している元凶ではないだろうか」と結んでいます。
私の基本的な考えとして出発点が人を好き嫌いで見ないとは、半年程前『好悪の情というもの』と題したブログでも述べておいた通りです。好きとか嫌いとかは関係なしに先ず一人間として互いに尊重し合い、付き合いを始めれば良いと考えています。
ある「おじさん」が人間的・道徳的に全く駄目で、「相手へのリスペクト」が著しく欠如し続けている場合に限っては、御気の毒様としか言いようがありません。私は、基本姿勢としては、全ての人が天命を授かって生まれてきて誰一人世に無駄な人はいないわけで、どんな御縁も大切にし、「美点凝視…努めて、人の美点・良所を見ること」を徹底すべきだと思っています。
そして相手の素晴らしいと思う部分を素直に学び、自分が劣っていると思えばそれを「恥」と思いリカバーするために努力する、といったことの積み重ねで良いのではないでしょうか。そもそもが、先入観で嫌いという感情があればその人からは何も得られないでしょう。また、同じ人であっても日々変化していることを忘れてはなりません。
」とは、天が人間のみに与えてくれた心の発現です。動物は「恥」というものを持っていません。此の「恥」及び一対を成す「敬」こそが、人間を伸ばして行く上で大きな働きをするのです。明治の知の巨人・安岡正篤先生は、「敬」と「恥」につき次のように言われています――敬するというのは、より高きものに対する人間独特の心で、敬するから、至らない自分を省みて恥ずる、これは陰陽の原理であります。敬するから恥ずる、恥ずるから慎む。戒める。この恥ずる、慎む、戒めるということが主体になる時に道徳というものができるのです。
何れにせよ、普通に人間生活を営んでいる中で何らかの御縁が生じたならば、基本そこに好悪の感情を挟まぬ方が良いのではないかと思います。仏教では「多逢聖因…色々な良縁を結んで行くと、それが良い結果に繫がる」ということが言われますが、様々な人に御縁を頂くことで、正に「縁尋機妙…良縁が良縁を尋ね発展して行く様は、誠に妙なるものがある」にも繫がって行きます。そうした機妙な状況を主体的に創り上げるべく、我々は「敬」と「恥」に根差し日々事上磨錬して自身の人間力を高め続けるのです。




 

『運命は変えられる』

2021年10月27日 14:20

私は郷学研修所・安岡正篤記念館(@noushikyogaku)さんをフォローし、そのツイートを日々目にしていますが、その中でひと月半程前、次の言葉をリツイートしておきました――自分を知り自力を尽くすほど難しいことはない。自分がそういう素質能力を天から与えられておるか、それを称して「命(めい)」と云う。それを知るのが命を知る、知命である。知ってそれを完全に発揮してゆく、即ち自分を尽くすのが立命である。
「命を知らざれば、以て君子たること無きなり」(『論語』尭曰第二十の五)、天が自分に与えた使命の何たるかを知らねば君子たり得ず、と孔子は言います。しかし命を知るは言うまでもなく、簡単なことではありません。また、知命だけで止まっていたらダメで、自分を尽くし立命の境地に至らなければなりません。
即ち、心を尽くし本来の自己を自覚し(尽心)、天から与えられた使命を知り(知命)、自己の運命を確立する(立命)、という一連の人間革命の原理を実践しなければならないのです。此の自己維新の一灯がやがて万灯になり、国や世界をも正しい良き方向に変えることに繋がるというのが、安岡先生の堅い信念でありました。私は、尽心・知命・立命という一つのプロセスを常に行い自己を究明し維新して行くかが、人間として生きる上で極めて重要だと考えています。
我々は、各人夫々が自分に与えられた固有の命を引き出し開発・発揮して行くといったふうに、宿命的なものを超え努力で運命を切り拓いて行くということに繋げて行かねばなりません。「運命だから仕方がない」という言い方をする人もいますが、仕方がないのは宿命(例えば日本人として生まれるといったこと)であり、運命は我々自身が変えられるものです。
運命とは読んで字の如く、「命(めい)」を「運(はこ)」ぶと書きます。対して宿は、「とどまる」という字です。命は人間の自由、わがままを許さない必然とか絶対とかいう意味を持っています。その命という造化(天)の絶対的働きの中に「数(すう)」という原因、結果、因縁、果報の複雑かつ微妙な関係を表すものがあります。従って、運命の中に含まれている命数を明らかにすれば、運命に乗じ運命を切り拓いて行く、つまりは立命して行けるのです。
人生、自分次第で変えられるところに良きところがあり、また、人間とは日々これ新たにすることが出来る有り難い動物であります。我々人間は、自己維新が出来るのです。我々一人一人は、自分で自分の命を生み、運んで行くことが出来るのです。安岡先生の次の言葉を御紹介し、本ブログの締めと致します。
――人間は機械的になればなるほど自主性、変化性のないものになる。そこで自然界の物質と同じように、その法則(数)をつかむと、それに支配されないようになる。そうして自主性をだんだん深めていったならば創造性に到着する。(中略)人間は学問修養をしないと、宿命的存在、つまり動物的、機械的存在になってしまう。よく学問修養をすると、自分で自分の運命を作ってゆくことができる。いわゆる知命、立命することができる。




 

『野党共闘に思う』

2021年10月19日 13:45

先週木曜日の衆議院解散を経て、事実上の選挙戦に突入しています。今回一つ注目されるべきは、所謂「野党共闘」の動きでありましょう。これまで当ブログでも折に触れて指摘してきたことですが、本件につき以下改めて「政治の三要素」より述べておきたいと思います。
中国古典流に言えば、政治は三つの要素に分かれます。第一に政治の政に道と書く「政道」というもので、時代劇などを見ると「天下の御政道」というようなことがよく出てきます。政道とは正に政治の根本中の根本であり、その国の君主なり皇帝なりが行う政治の思想・哲学に当たる部分です。
そして、その政道を踏まえ活用しながら如何に具現化・具体化して行くかが「政略」で、「政策」に繋がって行くわけです。一番大事なのは言うまでもなく思想・哲学であり、政道の違いを象徴しているのが各政党であります。政党は本来政党たる役割をきちっと果たすべく、政道・政略を踏まえた政治を実現して行かねばならないのです。
例えば14日、安倍晋三元首相は次の通り述べておられたようです――立憲民主党が、安全保障政策で全く違う考えの共産党と協力するのは、選挙のためだけの『談合協力』だ。もし政権を取れば、日米の信頼関係が根底から崩れ、そういう政権を許すわけにはいかない。
現下の野党共闘を見るにつけ、「消費税減税」や「脱原発」等の表層的な政策レベルでの擦り合わせに終始しています。もっと言えば、民主党・維新の党の合流(16年3月)以後を見てみても、野党各党は近視眼的な党利党略に基づき離合集散を繰り返しています。
即ち、野党間で行われるのは常々政策協議だけであって、最も枢要な要素である政道・政略についての議論が一切なされていないのです。しかし、その程度の野党共闘であっても今回結果として、自由民主党に属する優秀な議員がその資格を喪失し、日本の将来に禍根を残すかもしれぬ情勢に対し、私は危惧の念を抱いています。
例えば東京都第23区の場合前回4年前の得票数に鑑みるに、立憲民主党・共産党の候補者一本化によって、自民党衆議院議員の小倉將信氏にとっても厳しい戦いになるのではと心配しています。同君は、人物・見識とも申し分なく、将来を嘱望されている若者であります。対立候補である伊藤俊輔氏の政党遍歴が、日本維新の会→希望の党→国民民主党→立憲民主党といった具合であるにも拘らずです。
政道なき政治は、退廃に向かうより他ありません。それは、過去が証明している所であります。来る31日、我々は政治の三要素とりわけ政道・政略の相違に思いを致し、我々の貴重な一票を行使すべきではないかと思うものです。




 
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