北尾吉孝日記

『良知を致す』

2019年10月3日 19:15

今年6月フェイスブックに投稿した『偉大なるかな二宮尊徳』に対し、武本様と言われる方から「北尾様にお願い。荒廃した人間性を正すために、教育を始め、立法、司法、行政の大改革[令和の改革]を立案・提唱していただけませんか?」とのコメントを頂きましたので、本ブログにて私が思うところを簡潔に申し上げたいと思います。
最近の社会現象を見ていて私が非常にショックなのは、実の親が自分の子供を虐待し時として死に至らしめるとか、あるいは前の夫との間にもうけた子に対する再婚相手の虐待を母親が止められない、といった痛ましいケースが相次いでいることです。先月17日母親に懲役8年の実刑判決が下された所謂「船戸結愛(ゆあ)ちゃん虐待死事件」もそうですが、幼児の命が虐待で奪われて行くなどという惨劇を見ていますと、私自身憤りを覚えると共に「本当に何故こんなことが…」と強く思います。
結論から申し上げれば、之は非常に複雑かつ相当根深い問題であるが故、やはり第一には色々な意味で現行教育の抜本改革を施して行かねばらないと考えます。そしてその場合、単に親の在り方だけではなく、更に隣近所を含めた一つの共同体の在り方としても捉える必要があるようにも思います。人口減少社会の此の日本で、周りの人でも助けてやろうというような意識が希薄な現況は如何なものかと思います。
例えば、痩せた子供がちゃんと洋服も着ないで夜売店で御菓子をずっと見ていたとしたら、昔なら「きっと腹が空いているんだろう…」と心配し、少しでも何かを食べさせて栄養を取らせようとするでしょう。しかし今世の中を見ていますと、そうしたことに著しく疎く余りに冷たくなっているのではないか、という気がします。もう少し周りの人・社会全体で温かい態勢が取れるよう、早急に様々を見直して行かねばなりません。
昔であれば向こう三軒両隣と言って、皆が結構助け合いをしていたものです。また核家族化の進展の下、近所付き合いも段々と消失したりしています。シビアな現実として、子育て経験に乏しい母親が一人悶々としながら泣いている子供の世話を十分仕切らずにノイローゼになる、といったケースも沢山生じているわけです。こうした問題に対して、社会が本気になって取り組んで行かなければならないと思います。こうしたことも、根本的には教育改革に対する取り組みに他なりません。そしてその教育の基本は、一言で言えば「致良知…良知を致す」ということであります。
明治の知の巨人・安岡正篤先生は『東洋倫理概論』の中で、「天稟(てんぴん)の明徳を明らかにし、人間の進むべき道について学ばねばならぬ」と述べられています。天稟とは、人間が生まれ持った才能や性質です。明徳とは『大学』に出てくる言葉で、良知すなわち善悪の判断を誤らない正しい知恵を指して言います。人間生まれながらに持っている明徳を明らかにし、人間の進むべき正しい道を学ぼうというような教育を施さない限り、上記の問題は一向に減らない許(ばか)りか益々増えて行くことになるでしょう。
例えば今、「児相がきちっと対応できていたら、こうはならなかったのに…」と思われる事件が起きています。私に言わせれば之は、児童相談所に勤めている人が十分な良知を致していない、ということだと非常に問題視しています。私は、令和の大改革に挙げられるべき筆頭は道徳教育ではないか、という気がしてなりません。最近の社会現象は、余りにも酷過ぎます。




 

『天の力を借りられる人』

2019年9月26日 15:15

株式会社致知出版社の代表取締役社長・藤尾秀昭さん曰く、「一代で偉業を成した人は皆、天の力を借りられた人である。エジソン然り二宮尊徳然り、松下幸之助氏も稲盛和夫氏もそうである。では、どういう人が天から力を借りられるのか。その第一条件はその人が自らの職業にどれだけの情熱を注いでいるか--この一点にあるように思える」とのことです。
此の情熱に関しては、拙著『人物をつくる―真の経営者に求められるもの』でも松下幸之助さんの挙げられる指導者の資質条件につき、次の通り述べました--松下さんの話では百二の資質が必要だということですけれども、指導者には非常にたくさんの資質条件が必要です。(中略)第一の資質条件は、熱意を持つということです。それも、誰にも劣らない最高の熱意を持つということです。知識や才能は、人に劣っても構いません。しかし、こと熱意に関する限り、指導者は誰にも勝る熱意を持たなければならないと僕は思います。
指導者になりたいと思う人は、情熱から全てが始まるということをよく理解しなければなりません。他方、情熱を持っていたら天の力が借りられるかと言えば、それはまた別の話です。それは、如何なる事柄に情熱を注いでいるか、が大事になると思います。世のため人のためになるに何かに対して情熱を燃やし、強い意志を持って是が非でも成し遂げようと取り組んでいる場合は、ひょっとしたら天の力を借りられるのかもしれません。
世の中には運だけで偉業を遂げたという人もいるかもしれませんが、そうした人は極々稀でその殆どは多くの人間の支えを受け社会から重用されて成功に至るものです。そして彼らの足跡を訪ねてみれば、決して私利私欲のためには生きていません。世のため人のため尽くす気持ちを常に失わずにいる人が、結局天より守られて後世に偉大な業績を残しているわけです。
「善因善果(ぜんいんぜんか)・悪因悪果(あくいんあっか)…良いことをやれば良い結果が生まれ悪いことをやれば悪い結果が生まれる」という禅語がありますが、その善い因とは一言で言えば正に此の「世のため人のため」であろうかと思います。社会正義に照らし合わせて正しい事柄を常日頃からやっているかどうか、そして毎日を私利私欲でなく世のため人のために生きているかどうか--天が味方するか否か或いは良き運を得るか否かは、己の人生態度に尽きているのではないか、という気がします。
善因善果が良い出会・良い機会に結び付きますと、結果として成功するといったことにもなって行きます。誠実に一生懸命やっていれば御縁を得た人等々から色々な形でサポートを享受できる可能性も出てきて、そういう中で天の配剤が働いているが如き印象を得る部分はあるのかもしれません。天が味方してくれているような気になるは大いに結構で、そうして継続して善行を施して行けば良いのです。
最後に本ブログの締めとして、松下幸之助さんの言葉を紹介しておきます。松下さんは松下電器産業を大正7年に創立されますが、昭和7年5月5日に真の使命を知ったとして、その日を「命知元年」と名付けられ、全従業員を集めて「所主告示」という次の一文を発表されました。
--凡(およ)そ生産の目的は我等生活用品の必需品の充実を足らしめ、而(しこう)してその生活内容を改善拡充せしめることをもってその主眼とするものであり、私の念願もまたここに存するものであります。我等が松下電器産業はかかる使命の達成をもって究極の目的とし、今後一層これに対して渾身(こんしん)の力を揮(ふる)い、一路邁進(まいしん)せんことを期する次第であります。
ここには金儲けのことなど一言も書かれておらず、述べておられるのは正に世のため人のためという想いのみです。自ら私心・我欲を振り払い心の曇りを消しながら、世のため人のためを貫き通しその職責を果たして行く中で、はじめて天の御助けというのは起こってくるものではないか、と私は思っています。




 

『実践力とは』

2019年9月12日 17:45

『論語』の中には、言だけで行動が伴わないことを戒める章句が沢山あります。例えば、拙著『ビジネスに活かす「論語」』では、「君子は言に訥(とつ)にして、行(こう)に敏ならんと欲す・・・君子は言葉にするよりも素早く実行できるようにしたいと望む」(里仁第四の二十四)、あるいは「子貢(しこう)、君子を問う。子曰く、先ず其の言を行い、而(しか)して後にこれに従う」(為政第二の十三)といった孔子の言を御紹介しました。
全くの言行不一致を繰り返す人、一言で言えば「言うだけ番長…言葉ばかりで結果が伴わない人」の類では御話になりません。しかし現実は由々しきもので、言うだけ番長で終わる人、また見識(…知識を踏まえ善悪の判断ができるようになった状態)はあるにせよ胆識(…勇気ある実行力を伴った見識)を有するに至らない人が非常に多いように思います。
明治の知の巨人・森信三先生も言われるように、「キレイごとの好きな人は、とかく実践力に欠けやすい。けだし、実践とはキレイごとだけではすまさず、どこか野暮ったくて時には泥くさい処を免れぬもの」であります。実践力とは結局、「言ったことをきちっとやり遂げる」「出来ないことを言わない」といったものです。Don’t tell me.Just show me…もう言うのは分かりました。貴方の行動で見せて下さい--之は私が何時も使うフレーズですが、概して知行合一的に物事を処理して行ける人は極めて少ないように思います。
では、如何なるやり方で実践力を得て行けば良いのでしょうか。例えば、私が私淑するもう一人の明治の知の巨人・安岡正篤先生は、『照心語録』の中で次の通り述べておられます--われわれの生きた悟り、心に閃(ひら)めく本当の智慧、或いは力強い実践力、行動力というようなものは、決してだらだらと概念や論理で説明された長ったらしい文章などによって得られるものではない。体験と精神のこめられておる極めて要約された片言隻句によって悟るのであり、又それを把握することによって行動するのであります。
安岡先生の此の言は全くその通りで、そうした片言隻句を頻繁に念仏のように唱えることで自身の習慣のように身に付けて行くことが一番大事だと思います。書に出ているような難しい事柄でなくて、日頃から何事も言は行に結び付けねば無意味だとして日々の生活の中で事上磨錬(じじょうまれん)して行くのです。
習慣また親の教えとして自分自身が小さい時からずっと、「言ったことはやる」「約束は守る」といった形でやり続けていると、知らず知らずの内に実践力も得られてくるものです。もっと言えば、自分自身に義務化して行く位の覚悟で以て物事を処理する仕方を習慣として身に付けて行く、ということではないでしょうか。その人の実践力の有無あるいは程度とは、そういった習慣が身に付いているかどうかだと私は思っています。




 


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