北尾吉孝日記

『スタミナを持つ』

2019年11月5日 19:10

私は嘗て、『人生を生きて行く上で大事なこと』(10年3月2日)と題したブログの中で、次の通り述べたことがあります――鉄血女史のサッチャー元英国首相は「指導者の条件」として「①スタミナを持つ、②決断力、③説得力、④孤独に耐える、⑤家族の協力を得る」の5つを挙げています(中略)。如何に自分を律するのかということとスタミナというものの関わりには非常に強いものがあります。
先ず②決断力および③説得力というのは、指導者の条件として特段の指摘を要さないでしょう。また⑤家族の協力を得るというのも、ある意味当たり前の話です。取り分けサッチャー元首相は一人の母親でしたから、家族の協力を得ねばならない事柄が沢山あったのではないかと思われます。その時「孝」に貫かれた親子の信頼関係を醸成していれば、当然ながら子供とは協力を得ることが出来るでしょう。夫との良い協力関係は、別な形で作って行かなければならないでしょう。
ちなみに、此の孝の字義より述べますと、孝の字は「老」と「子」に分かれます。即ち孝というのは、「年をとって腰の曲がった老人が杖をつく形が老であり、それを子が支える形」、「年長の者が年下のか弱い者を庇(かば)う形」です。親と子が双方から慈しみ合い、力を合わせて労(たわり)合い、助け合う姿が孝というものであります。
次に④孤独に耐える、とは一面で正しいと思います。要するに、様々な衆知を集め色々な人の意見は聞くものの、最終の断を下す部分は独りで行い、その責任は自分が負わねばならない、といった意味において常に指導者は孤独です。但し、判断に至る迄の間は決して孤独ではありません。何故なら英知の結集に努めるわけですから、必ずしも孤独であるということではないと思います。
最後に①スタミナを持つというのは、当ブログにて本年8月にも触れた骨力(こつりょく)の話です。私としては、上記指導者の条件5つの内で之が一番大事だと捉えています。私が私淑する明治の知の巨人・安岡正篤先生も、「人間の徳性の中でも根本のものは、活々している、清新溌剌ということだ。いかなる場合にも、特に逆境・有事の時ほど活々していることが必要である」と述べておられます。人間やはり此の骨力というものが、極めて大事だということです。
骨力とは、安岡先生によると「人生の矛盾を燮理(しょうり:やわらげおさめること)する力」のこととも言え、人間本来持っている生命力(…包容力・忍耐力・反省力・調和力等)のようなものを指して言います。平たく言うと「元気」であって、骨力から気力・活力・性命力が生み出されます。
そうして骨力が気力を生み、次第に精神的に発達すると生きる上での目標・目的となる「志気」「理想」を持つようになるわけです。冒頭「如何に自分を律するのかということとスタミナというものの関わりには非常に強いものがあります」と書きましたが、私は全て此の骨力と関係していると思っています。




 

『心を洗う』

2019年10月25日 15:00

株式会社経済界より『心を洗う』という本を上梓しました。週明け28日より全国書店にて発売が開始されます。本書は12年前の4月より書き続けているブログ「北尾吉孝日記」の再構成として、08年9月出版の第1巻『時局を洞察する』から数えて12巻目に当たります。
今回は、本書のタイトルを『心を洗う』としました。「洗心」の二字は、神社の拝殿前の御手洗(みたらし)の水盤に彫られたり、禅語の茶掛(ちゃがけ)として用いられたりしていますから比較的良く知られる熟語です。
この語の出典は、古代中国の『易経』です。『易経』は四書五経に挙げられる儒教の経典です。この『易経』の「繋辞(けいじ)上」に「聖人は此(ここ)を以って心を洗い、退きて密に蔵(かく)れ、吉凶民と患(うれ)いを同じくす」とあります。また『後漢書』の「順帝紀」に「洗心自新(心を洗いおのずから新たなり)」という句があります。
「洗心」の字義は説明するまでもないことですが、「心の塵(ちり)を洗いおとすこと」、「心の煩累(はんるい)を洗い去り浄めること」で、簡単に言えば、心の汚れ、雑念・執着を取り除くことです。
我々が朝起きて顔を洗うのも、日に何度も手を洗うのも、神社でお参りする前に手や口を清めることも、茶席に着く前に手を洗うのも「洗心」の行の一つと言えるかも知れません。
しかし、「洗心」の為の最も大切な行は人格陶冶(じんかくとうや)に向けた不断の努力です。陽明学の始祖である王陽明(1472~1529年)の言葉を借りると「天理に純にして、人欲無し」といった状態を目指し、先哲から学び、知行合一(ちぎょうごういつ)的に事上磨錬(じじょうまれん)していくのです。こうしたことを陽明学では「良知を致す」と言います。
聖人とは、個の良知を純粋に体現して、心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えざる(自分の思うがままに行っても、正道から外れない)に至った人であります。我々凡人はせめて日々反省・洗心し、それぞれの良知に従って行動することに努めねばなりません。
私の拙いブログ本をお読みになり、もし得るところがあれば、血肉化し、皆様方の実際の日常生活の中でそれが行動に移されるようになれば、私として望外の喜びです。本書が読者の皆様の日々の修養の一助となれば、幸甚であります。




 

『慈母に敗子あり』

2019年10月17日 16:35

日本経済新聞に先々月25日、『すぐ怒る自分を変えたい 講座に年24万人、6年で29倍-トラブル防ぐ「アンガーマネジメント」』と題された記事が載っていました。当該講座では、『1970年代に犯罪者の更生プログラムとして米国で生まれた心理トレーニングを活用し、怒りのメカニズムを学び「許せる範囲」を広げる訓練を重ね』たりしているようです。
王陽明の言、「天下の事、万変と雖(いえど)も吾が之に応ずる所以(ゆえん)は喜怒哀楽の四者を出でず」の中にも「怒」が含まれているように、怒りという感情を持った動物として天は人間を創りたもうたのです。故に、之を消失することはある意味で不可能だと私は思います。
ですから、怒る時には下らない事柄で怒るのではなくて、社会正義に照らし正しいかどうかを判断基準として、常に抑えるべきところは抑え、真に怒るべきところに怒らねばなりません。しかしながら最近の世の風潮を見ていますと、余りにも詰まらない対象に対して此の感情を剥き出しにしている、といったケースが多数見受けられます。
それは例えば、『あおり運転を含む道路交通法違反の「車間距離不保持」の摘発件数は1万3025件(18年)で前年の約1.8倍』ということで、今年に入っては常磐自動車道での宮崎文夫容疑者による一連の言行が象徴的だと思います。之は、怒る必要が全くない時にも拘らず訳も分からず直情で激昂しているものであって、私は、自分を律する・自分を抑える自制心が著しく欠如しているのではないかとの印象を受けています。
では、何故に自制心が働かず直ぐに怒りの感情を吐露するようになってきたかと考えますと、今月3日のブログ同様これまた教育の問題に行き当たります。要するに、きちっとした自制心を育むような親の躾(しつけ)なり学校教育が為されていない、即ち、我儘(わがまま)になっているのではないでしょうか。
とは漢字で書くと、身を美しくするという形ですが、之は必ずしも外見上のことではなくて、内面的な美しさを持たせるようして行くものであります。ところが我国では戦後不幸にも長年に渡って、家庭・学校をはじめ社会全体で上記のように子供を躾け育てて行くような状況ではなかったのです。そして子供の時から我儘放大に育てられた結果として、自分の思うことが思う通りに出来なかったら直ぐに周りに対し怒りの感情を吐露するようになっているのではないか、と私は見ています。
『韓非子』に、「厳家に悍虜(かんりょ)なく、慈母に敗子あり…厳しい家庭になまけものの召使いはいないし、過保護な家庭には親不孝者が育つ」という言葉があります。学校での試験の点数さえ良かったら「いい子」になってしまう成育環境こそが、今日の「敗子」を生んできているのではないでしょうか。我々は先ず第一に、子供達の自制心を育んで行く場に道徳教育を加えなければ、何時まで経っても此の社会は中々良くならない、と思います。




 


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