北尾吉孝日記

『人望とは』

2017年9月5日 17:30

『学問のすゝめ』十七編「人望論」の中で福沢諭吉は、「人望はもとより力量によりて得(う)べきものにあらず、また身代の富豪なるのみによりて得べきものにもあらず、ただその人の活発なる才智の働きと正直なる本心の徳義とをもってしだいに積んで得べきものなり。人望は智徳に属すること当然の道理にして、必ず然るべきはずなれども、天下古今の事実においてあるいはその反対を見ること少なからず」云々と述べています。
人望という字は、人に望まれると書きます。つまり、ある面で人から頼りにされるということです。それは例えば、窮地に陥った時あの人ならどう考えるかと是非聞いてみたいとか、問題が起こったからあの人に一遍相談したいとか直ぐに助けを求めようとか、といった具合に一種の頼り甲斐がそこにあります。
そして頼り甲斐のある人であっても、あの人は真摯に自分の悩みに答えてくれないのではないかとか、此の困難な状況下あの人なら真摯に尽くしてくれるだろうとか、といった具合にそうした姿勢の有無も人望が有るか無いかに関わっていると思います。
平たく言えば上記類が人望、または人望のあらわれということになるでしょう。では如何にして人望を得て行くかと言うと、それはその人が人物か否かに関わります。即ち換言すれば、その人が他人の苦しみを自分の苦しみのように、あるいは他の出来事を自分の出来事のように捉え得る姿勢を持っているかどうかに拠ります。
例えばアダム・スミスは『道徳感情論』で、「人間は他人の感情や行為に関心をもち、それに同感する能力をもつという仮説から出発している」わけですが、此の「共感(sympathy)」の気持ちは当該姿勢に通ずるものでしょう。そしてそれは恐らく自分自身が様々な艱難辛苦を経験し、ある程度修養して行く中で養成されるものだと思います。
人望の源は、言うまでもなく人徳です。人望とは究極の所、徳の高低の問題です。世のため人のための修養をしなければ、私利私欲に塗れ人間的魅力もなく人望は得られません。我々は自分の世界だけに閉じ籠るのでなく、人の喜怒哀楽をシェアし人の気持ちになって考え感ずるよう努めて行かねばなりません。




 

『人の採用』

2017年8月31日 17:00

日経ビジネスオンラインに以前、『カルビー・松本晃会長兼CEOの「経営お悩み相談室」』(15年10月20日~16年1月8日)というコーナーがありました。その第2回目は、『中途採用の「成功率」を6割に上げる方法 決まりきった質問だけでは人物像は分からない』(15年10月22日)と題されたものでした。
当該記事の中で松本さんは、『最大のポイントは、トップ自身が採用基準を持つことです。何の方針もなく面接に臨むと「志望動機は何ですか」などと型通りの質問しかできない。当然、相手は事前に準備してきていて、よどみなく答える』と言われていますが、私も全くその通りだと思っています。
例えばSBIグループの新卒や中途の採用は、私が全て最終面接を行います。その採用の基準は一に人物、二に能力や知識です。嘗てのブログ、『伸びる人、伸びない人』(14年7月8日)にも書きましたが、能力を見る場合は、その人の持つポテンシャルも大切だと思っています。これまで身に付けた知識・経験を重視するというよりも、その人間がどれ程の伸び代を有しているかを何時も見ようと心掛けているわけです。従ってそれが垣間見れるよう、人間学的な立場からの質問や幅広い視野を問うような質問等、多くの会社とは一風変わった面接を行っています。
即ち、誰もが想像しているような答えのスッと割り切れる話を聞くというだけでなく、その人ならではの人生の経験・体験を踏まえた上で導き出される各人固有の答えから、その人を知ろうと試みているのです。
そうして如何なる答えを出すかによって、「生まれて来し方どういう生き方をしてきた人間なのか」、「その人の価値観の中で何が高いウェイトを占めているか」、「今度どういう人生を歩まんとしているのか」、等々を私なりに推測しているわけです。
私の人物評価の基準は、そういうものです。勿論、そうは言っても人を見極めるは難しく、どこまで正鵠を得られているかは疑わしくも思います。しかし、人の採用に当たっては、上記類の努力が非常に大事だと思います。少なくとも、「志望動機は何ですか」などと質問するよりも、正鵠を得る確率が上がるやり方だと思います。




 

『偉大な人とは』

2017年8月28日 16:55

当ブログでは嘗て、「偉人は四十頃からぼつぼつスピードを掛け出すが、凡人は四十歳頃から早くも力が抜け出す」(16年10月31日)とか、「偉人と凡人の差も、結局はこの生から死への間をいかなる心がけで過ごすかという、その差に外ならぬ」(15年8月6日)といった、森信三先生の言葉を御紹介しました。
此の偉人と凡人ということで、明治時代の評論家・思想家である高山樗牛(1871年-1902年)は、「偉人と凡人との別は一言にして尽すべきのみ。彼れは人生を簡単にする者也。此れは人生を複雑にする者也」と言われています。そしてそれに続けては、「本能の命ずる所、其処に人生の最も大いなる事実あり。夫の煩瑣を以て精緻と称し、迂遠を以て妥当と為すもの、そもそも人生直下の事実を如何とか見る」と言われています。之は私には分かったような分からないような言葉に感じられます。
此の「人生を簡単にする」「人生を複雑にする」とは先ず、誰の人生を指してのものかが不明瞭に思います。また、簡単・複雑という意味は具体的に何を言うものか等、良く分からない部分もあります。高山樗牛は評論家としても一流であったのは事実ですが、上記言葉に関しては私には十分理解出来ません。
私自身、偉人あるいは偉大な人とは、「無から有を生ずる人」「不可能を可能にする人」「今まで非常識だとされていたことを常識に変える人」のどれかに該当する人、として定義しています。また、「偉大とは人々に方向を与えることだ」というニーチェの名言をよく引用したり、「本当に偉大な人とは死して尚、何代にも亘って影響を及ぼせる人」という言い方もしています。
あるいは7年程前、「人間は社会の存在なしに生きていけないのです。人間各人が社会の一員であり、相互依存関係の中で生かされてるわけです。こうしたことを自覚したとき世のため人の為という心が芽生えるのです。自分の小欲に克ち、社会の為にという大欲に生きる人が偉大な人なのです」とツイートしたこともあります。
私は、偉大とはそういうものだと思っています。ですから、偉人には人類社会の進歩発展に多大なる貢献を果たされているような人が多いのです。ノーベル賞を授与された人達は、こういう類でしょう。要は具体的に言えば、我々がより良き生活を送るべく、何かを生み出したり改善した人々が偉大だということです。




 
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