北尾吉孝日記

『今ここに生きる』

2018年3月13日 17:20

マハトマ・ガンジーの有名な言葉の一つに、「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい…Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever」というのがあります。
「志のある人は、人間は必ず死ぬということを知っている。志のない人は、人間が必ず死ぬということを本当の意味で知らない」とは曹洞宗の開祖・道元禅師の言葉ですが、此の両者は、その志を如何にして次代に引き継ぐかを考えながら生きているか、あるいは全くそういったことに思いを致さないで生きているかが、その分岐点とされるものです。
之は一言で死生観の問題であって、真に志ある人とは、人間死すべき存在であるがゆえ生を大事にしなければならず、生ある間に後に続く人々への遺産を残して行かねばならないことを知っている人を言うのでしょう。
そしてその遺産とは、物的なものでなく「志念の共有」ということであり、世に何らかの意味ある足跡を残して行くということであって、必ずしも有名になったり大事業を残したりといった類に限りません。自分がしっかりとした人生修養をして行く中で学び得たものを、次代に引き継げるようになれば、それだけでも良いのです。
今ここに真剣に生きることが永遠に通じるような生き方になり、肉体が滅びてもその名は時を超え果てしなく残って行くことになります。例えば、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」という辞世句を残した芭蕉は、いつ死ぬか分からぬ中で、「きのうの発句は今日の辞世、きょうの発句は明日の辞世、われ生涯いいすてし句々、一句として辞世ならざるはなし」と大変な覚悟を持ち、今を真剣に生きたのです。
正に死に面したような状況下ずっと生き抜いてきたからこそ、世に優れた句を生み出すことができ芭蕉の名は永遠のものになったわけです。上記覚悟というのは、ある意味「志」と言い換えても良いものだと思います。
常に死を覚悟し今を大切にし、一分一秒といった計数的時間を超越し、「如何に生くべきか」といった自己の内面的要求に基づいて毎日を生きるのです。その生き方こそ永遠の今に自己を安立せしめることであります。今ここに生きることが結果、ガンジーの言う「永遠に生きる」ことに繫がるのだと思います。




 

『心というもの』

2018年3月2日 16:00

臨済宗大本山円覚寺の横田南嶺管長は「心を鍛える5つの教え」として、①「外の世界のさまざまな物事に心を奪われるな」、②「外の世界のさまざまな物事に貪り拘るな」、③「常に自分のやっていることに心を集中させよ」、④「心が心によって見るもの、聞くものの広さを持て」、⑤「勇猛果敢な志、気持ちという者を失うな」、ということを言われているようです。此の①~③は特段の指摘を要さぬと思われるため、以下④と⑤につき私流の解釈を簡潔に述べておきます。
先ず「心が心によって見るもの、聞くものの広さを持て」とは、「様々な事柄を斟酌しながら相手の心を読んで行け」と言い換えられるのではないかと思います。心というものは視・聴・嗅・味・触の感覚、所謂五感である意味捉えられないものを捉え、物事を推し量って行くわけです。何ら表情に出さない相手が何を考えているかを捉えるに、それは相手の心の動きを見て行くしかないのです。
例えば曹洞宗開祖の道元禅師は、相手に気を利かせられない弟子には免許皆伝を与えず、それが出来る弟弟子の懐奘(えじょう)には先んじて伝授しました。兄弟子の義价(ぎかい)には、老婆心が足りないと言われたそうです。老婆心とは御節介ではなく、心配りのことです。昨年の流行語大賞の一つ、「忖度(そんたく)」ではありません。もっと深い意味があるのです。相手の顔を見ずして相手の悲しみを認識し、自分も同じ境地に入ってその悲しみと同レベルに達し、相手を如何にして慰めて行くかということではないでしょうか。
次に「勇猛果敢な志、気持ちという者を失うな」ですが、此の「志、気持ち」は「胆識(たんしき)」という言葉がより適当ではないかと思います。拙著『君子を目指せ小人になるな』(致知出版社)にも書いておいた通り、「知識」「見識」「胆識」の定義に関しては、夫々「物事を知っているという状況」「善悪の判断ができるようになった状態」「実行力を伴った見識のこと」であります。
志が高ければ高い程それを達成するため、より厳しく自分を律し、努力して行かねばなりません。上記した「勇猛果敢」の類とは少し違った勇気ある実行力を有した人でなければ、本当の意味で志を成し遂げることは出来ないのです。王陽明の『伝習録』の中に「知は行の始めなり。行は知の成るなり」という言葉がありますが、つまりは「見識を胆識にまで高めろ」ということではないでしょうか。




 

『才を見い出し育てる』

2018年2月23日 17:05

先月14日アゴラに「若いうちに専門を絞ることはスポーツでもビジネスでも弊害あり」という記事がありました。「スポーツマーケティングコンサルタント」の筆者は当記事で、「スポーツ界で活躍するために、スポーツビジネスを高校や大学で学ぶ必要が本当にあるのか? 僕は必ずしもないと思います」等の指摘を行われています。
先ず基本的な考え方として、人間どういう才がどれだけ有するかを見極めるは難しく、そう簡単に分からないことだと思います。『論語』に孔子が弟子の冉求(ぜんきゅう)に対し、「今(いま)汝(なんじ)は画(かぎ)れり…今のお前は初めから見切りをつけているではないか」(雍也第六の十二)と怒る章句があります。自分の能力を自分で限定し自己規定してしまうとか、あるいは途中で諦め出来ないと思い込んでしまうとか、そういった形で限ってしまうケースは結構あるのではないでしょうか。
4年前のブログ『「6・3・3・4」制の見直しについて』等でも指摘した通り、例えばJewishは個々人の才能を早く見極めて、その才能に特化した教育を徹底的に行い、様々な分野における天才を養成しています。此の人間は何処に天賦の才があるか、とある意味ずっと見て行ける人でないと一人前の学校の先生でない、といったところがある位です。こうしたJewishの教育観の如く、やはり親も先生も「この子にはどんな才能があるのか」を出来るだけ早く見い出し、その才能を伸ばしてやるということが第一だと思います。
第二に、親にしても先生にしても「この子は何が本当に好きなのか」をよくよく見て行く必要があります。才有りと思われても、嫌いなことは長続きせず、本人の努力が続かなければ、それはそれで終わりになるわけです。そういう意味では親も先生も、その才能が本物であると思えばこそ、それが好きになるよう如何なる教育が施されるべきか、と持って行ってやらねばなりません。
そして「この子にはどんな才能があるのか」と「この子は何が本当に好きなのか」が同一の場合、出来るだけ早い時期から一芸に秀でるようして行くのが本来の教育の在り方だと思います。Jewishはそうやってノーベル賞やフィールズ賞、あるいはアカデミー賞最優秀監督賞等々の輩出率で傑出した地位を占めるに至っているのです。
それから最後にもう一つ、才を開く上で非常に大事だと思うのは、本人に好きなものを選ばせるという部分です。当ブログで嘗てイチロー選手の言葉、「今自分がやっていることが好きであるかどうか。それさえあれば自分を磨こうとするし、常に前に進もうとする自分がいるはず」を御紹介しましたが、やはり自分自身で好きにしたことは中々諦めず、何より楽しくやって行くわけです。『論語』に「これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」(雍也第六の二十)とあるように、楽しんでやれるようなることが才能開花の一番の近道になって行くのだと思います。




 
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