北尾吉孝日記

『人格=性格+哲学?』

2017年7月4日 18:10

稲盛和夫さん曰く、『人格というものは「性格+哲学」という式で表せる(中略)。人間が生まれながらにもっている性格と、その後の人生を歩む過程で学び身につけていく哲学の両方から、人格というものは成り立っている』とのことです。此の人格とは別の言葉で、品性や品格と言っても良いと私は思います。
大阪の船場には、「気品三代」という言葉があります。気品をつくるには三代かかるという意味の言葉です。即ち、三代の祖先の修行の積み重ねが当代の品性に影響を及ぼしているということです。
子供からしてみれば、自分の両親あるいはその親である御爺・御婆の躾(しつけ:外見を美しくすることではなく、心とその心が表れた立ち振る舞いを美しくすること)が自分の品性に大きく絡んでいるのです。
また考えてみると恐ろしいことですが、今を生きている自分の言動が三代後の子孫の振る舞いに影響を及ぼして行くわけです。このように気品というものは、家庭内で脈々と受け継がれて行く要素があるということです。
そういう意味で冒頭稲盛さんが言われているように「生まれながらにもっている」とまでは私は言いませんが、性格というか要するに一種の「育ち」という部分に先天的なものはあろうかと思います。それは金持ちの家に生まれたか否かといった類でなく、家庭教育の中で如何に身を美しくさせられてきたのかに因るものです。
此の育ちや「血」は陰に陽に、人生に様々な影響を与えて行きます。言うまでもなく、それらを変えるのは大変難しいわけですが、「学問修養」によっては変えることも可能となり、自分の品性を高めて行けるようになりましょう。
何れにせよ、哲学というか「人生を歩む過程で学び身につけていく」後天的なものというのは、色々な友人達や先輩諸氏との巡り合いの中で切磋琢磨しながら自分自身で切り拓いて行くものですから、「人格=性格+哲学」と言えないことはないと思います。
「人間の修養上、最大の難物」と森信三先生も述べておられるように、人間としての品性を高位に保つのは非常に難しく、だからこそ平生の心掛けを大事にすると共に、必死になって学問修養をして行かなければ、人格というものは決して磨かれることはありません。




 

『日本の病巣』

2017年6月9日 18:50

今国会中テレビや新聞を見ていると、安倍政権は「森友学園問題」に始まり「加計学園問題」に至るまで毎日のように突っ込まれて大変なようですが、両問題に対する追及も何ら核心を突くようなものでなく、野党及び報道各社は「よくもまぁこんな仕様もない突っ込みを何時までも続けているなぁ…」というふうに小生は見ています。そして此の詰まらぬ劇場に登壇してくる主人公あるいは役者を務めるのは、文部科学省の前事務次官・前川喜平氏を筆頭に実に詰まらぬ面々だと思います。
先日の報道で此の前川という人は座右の銘が何かと聞かれ、「面従腹背:めんじゅうふくはい…表面では服従するように見せかけて、内心では反抗すること」と言い放っていました。YouTubeでも『前川の乱:座右の銘は「面従腹背」』が閲覧できますが、こういう下らぬ男が文部科学事務次官として日本教育の根幹部分を司っていたわけで、私は「これなら日本の教育は良くならなかったはずだ」と痛感した次第です。
昨今「いじめとの関連が疑われる生徒の自殺について、教育委員会や教委が設けた第三者機関の調査に遺族が不信を抱き、再調査やメンバー交代などを求める」ケースが相次いでいます。例えば茨城県「取手市中3いじめ自殺」(15年11月)を巡り同市教委は、16年3月より「いじめの事実は認められない」としてきました。ところが先月末、文科省から指導を受けて直ぐ様に「いじめがあったことは認めざるを得ない」と、その判断を一変させたのです。
また「いじめはなかったという当初の判断で作られた第三者委員会」の人選自体にも勿論重大な過ちがあったと言えましょうが、同時に此の明らかないじめをいじめと認められなかった当委員会のメンバーに対して憤りを禁じ得ません。これら取手市教育委員会(教育長・矢作進氏)を中心とした御粗末のオンパレードにつき、「なるほど。面従腹背を座右の銘とする前川氏が文科省の事務次官をやってたら、そりゃあそうなるわなぁ」と妙に納得した位です。
例えば『書経』の「皋陶謨(こうようぼ)」にも、「予(よ)汝の弼(たすけ)に違(たが)へば、汝面従して、退きて後言有ること無かれ。つつしめよ四鄰(しりん)」とあります。之は「伝説上の五帝、最後の聖王舜(しゅん)が禹(う:次の王朝、夏の初代)を戒めていった言葉」で、「面従後言:めんじゅうこうげん…面と向かっては、こびへつらって従い、裏に回っては悪口を言うこと」では駄目だと教え授けています。
このように為政者最大の基本道徳として様々な中国古典で、「面従腹背するような人間に絶対になってはならない」と言われているにも拘らず、それが座右の銘である人が「文教行政のトップとして、子供たちに学問の意義や人の道を教える立場だった」のですから開いた口が塞がりません。菅義偉官房長官も2週間前「さすがに強い違和感を覚えた」と述べておられた通り、「女性の貧困問題の調査のために、いわゆる出会い系バーに出入りし、かつ女性に小遣いを渡してい」たなどは論外ですが、それ以前の問題としてそうした事柄を滔々と述べるような人を「教育行政の最高の責任者」に据えていたこと自体、政府与党も深く反省すべきだと思います。
先月28日、首相在任期間で戦後歴代3位となった安倍晋三首相を私は非常に高く評価しておりますが、唯一つ問題だと捉えているのは一国の将来の舵取りを担う極めて大事な大臣人事の在り方です(参考:2014年10月23日北尾吉孝日記『小渕・松島両氏辞任に思う』)。脳梗塞を3度患いその後遺症がある金田勝年法務大臣は言うに及ばず、米国からも全くゼロ評価の稲田朋美防衛大臣等と、各所でナンセンスな人選が見受けられます。彼らがため色々な問題が生じたり長引いたり擦った揉んだすることになるのは、総理ご自身の責任であるわけですから今後尚一層気を付けて行かなければならないでしょう。
何れにせよ冒頭挙げた「森友学園問題」も「加計学園問題」も、国会での貴重な審議時間を浪費し続ける程大した話ではありません。しかし野党は両問題につき執拗に問題視し続けて、国会議員として取り上げるべきより大きな問題に対する審議を等閑に付してきたのです。当ブログで3ヶ月前にも指摘した通り国会という大事な場では、これから憲法・防衛・外交をどうして行くのか、これからの経済・財政・税制をどうするのか等々、日本の将来を左右する沢山の重要事項で以て本来もっと多くの時間を費やさねばならないのです。未だ「二重国籍問題」を抱える野党第一党の民進党代表の蓮舫氏がその全てを告白し禊を済ませぬ限り、その「うさん臭さ」は拭い切れず安倍政権を批判すればする程野党がどれだけ御粗末かを表明しているに過ぎません。




 

『精神的に強い人』

2017年6月5日 16:05

『論語』の「先進第十一の十」に、「顔淵(がんえん)死す。子これを哭(こく)して慟(どう)す。従者の曰く、子慟せり。曰く、慟すること有るか。夫(か)の人の為に慟するに非(あら)ずして、誰が為にかせん」とあります。
之は、『顔回が死んだ時、孔子は悲嘆のあまり慟哭され、連れ添った門人たちが言った。「先生は大変な悲しまれようでした」。孔子は言われた。「私はそんなに悲しんだかね?あのような人間の死を悲しまないで、誰のために悲しむと言うのだ?」』という章句です。
上記より、孔子は精神的に弱い人かと言うと、そうではありません。人間として当然持つべき感情の吐露は、寧ろメンタリーに健全な状況だと思います。そしてまた、泣くべき時に泣かないでいることは、メンタリーに強いということも意味しません。
その人が精神的に強いか弱いかの判断は、通常の状況下で本来出来るものではないと思います。それは、想像を絶するような事象が起こった時に、正に「弁慶少しも騒がず慌てず」ということが出来るか否かに拠りましょう。
当ブログでは嘗て『論語』や『呻吟語』あるいは『呂氏春秋』といった書物から様々な人物判定の方法を御紹介しましたが、つまりは「恒心…常に定まったぶれない正しい心」がどうかの一点こそが急所であると思います。
此の恒心というのは「言うは易く行うは難し」で極めて難しいことですが、その実現を図るに私は取り分け次の三点が重要だと考えています(参考:2012年10月12日北尾吉孝日記『知情意をバランスする』)。
第一に、人生におけるあらゆる辛酸を嘗め尽くすとまでは行かなくとも、「世の中には自分以上に苦しんでいる人が沢山いる。自分の存在は寧ろ有り難い」というふうに思えるよう、兎に角色々な経験を積むことです。
第二に、中国清朝末期の偉大な軍人、政治家で太平天国の乱を鎮圧した曾国藩が言う「四耐四不」、即ち「冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、激せず、躁(さわ)がず、競わず、随(したが)わず、もって大事を成すべし」という言葉の実践に向けての日々の努力です。
第三に、「学」というものであり、荀子も言うように憂えて心が衰えないようにするため、世の中の複雑微妙な因果の法則を悟って惑わないようにするため、しっかりと人間学を修めねばならないことです。
恒の心というのはこれら合わさって達成されて行くわけで、「精神的に強い人が決してしない10のことを学べば、あなたも自分の精神力を高めることができる」とか、『「精神的に強い成功者にみられる10の習慣」を意識して、つらいできごとにも負けないメンタルを身につけ』るとか、といった類のネット記事は余りにも浅薄です。
もっと言うと、先ずは四耐四不で艱難辛苦を様々克服して行く中で精神的タフネスを如何に養うか、ということに尽きるのです。いま苦しいのは、「人間成長のためだ」「天が与えたもうた試練だ」と思って、之を頑張り抜くのです。




 
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