北尾吉孝日記

『天を信ずる』

2019年9月4日 16:45

明治・大正・昭和と生き抜いた日本が誇るべき偉大な哲学者であり教育者である森信三先生は、信というものに関し様々述べておられますが、一つに「信とは、人生のいかなる逆境も、わが為に神仏から与えられたものとして回避しない生の根本態度をいうのである」との言葉を残されています。私は、此の信とは言い換えれば、天に対する自分の信念だと思います。
例えば『論語』の「子罕(しかん)第九の五」に、「孔子一行が衛の国を出て陳の国へ向かう途上で、魯の国で一時期権勢を誇った陽貨という人物と間違われて陽貨に恨みを抱く匡(きょう)の人々に捕らえられてしまった時のエピソード」があります。
拘禁された孔子はその時、ひょっとしたら殺されるかもしれないといった中で、次のように言いました--文王(ぶんおう)既に没したれども、文茲(ここ)に在らずや。天の将(まさ)に斯(こ)の文を喪(ほろ)ぼさんとするや、後死(こうし)の者、斯の文に与(あず)かることを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人(きょうひと)其(そ)れ予(わ)れを如何(いかん)。
之は、「周の文王は既に亡くなっているが、彼の始めた文化は私が受け継いでいる。もし天が彼の始めた文化を滅ぼしてしまおうとお考えなら、そもそも私がそれを受け継げる道理が無い。しかし現に私がその文化を受け継いでいる以上は、匡の人々ごときが天に逆らって私をどうにかできるはずもない」といった意味になります。
あるいは、『論語』の「述而(じゅつじ)第七の二十二」に、孔子が宋の国の軍務大臣であった桓魋(かんたい)に命を狙われ、絶体絶命の危機に陥った時に発した言、「天、徳を予(われ)に生(な)せり。桓魋其れ予を如何せん」があります。
之は、「天は私に徳を授けてくださった。その徳を持つ私を、桓魋ごときが殺せるわけがない」といった意味になります。孔子はどれ程の窮地に追い込まれようとも、なお心の状態を平静に保つ、大変な肝が据わった人物だったのです。上記章句からも分かるように、孔子が如何なる時も「恒心…常に定まったぶれない正しい心」でいられたのは、天に対する絶対的な信頼感を有していたからでありましょう。
『論語』の中には、孔子が天に対しある意味絶対的な信を寄せていたと感じさせる言葉が沢山出てきます。「我を知る者は其れ天か」(憲問第十四の三十七)も、その一つです。ですから、孔子は「人生のいかなる逆境も、わが為に神仏から与えられたものとして回避しない」わけで、来たる大事に向け自分を鍛える為に天がそうしているだけのことだと捉えるのです。
これ正に『孟子』にある、「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志(しんし)を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓えせしめ、其の身を空乏にし、行ひ其の為すところに払乱(ふつらん)せしむ。心を動かし、性を忍び、その能(あた)はざる所を曾益(ぞうえき)せしむる所以(ゆえん)なり」ということです。人生には、予想もしないような困難に遭遇することがあります。そんな時に不遇を嘆くのではなく、天の与えたもうた試練と思い、そのままを素直に受け入れる、といった態度が一番良いのではないかと思っています。




 

『重役というもの』

2019年8月29日 15:00

日本経済新聞に今年1月、「重役にしてはいけない人」という記事がありました。そこでは先ず、「会社の取締役や監査役といった名前が欲しいだけの人」「いい人だが能力がない人」「会社を私利私欲のための手段とする人」、の3点を渋沢栄一翁の名著『論語と算盤』より挙げて指摘しています。
そして最後に筆者は、「自分と異なる意見を持つ人間を排除する人」「学ばない人」「周囲の人を大切にしない人」、の3点を上記に付け加えたいとしていますが、私に言わせれば、それら全ては渋沢翁による3点の中に包含されているように思われます。
「自分と異なる意見を持つ人間を排除する人」も「周囲の人を大切にしない人」も、「会社の取締役や監査役といった名前が欲しいだけ」で「会社を私利私欲のための手段」として考えているのでしょう。つまり本当に会社のためを思い考えて、公のため何とかプラスになる事柄をやろうとすれば、当然人を「排除する」とか「大切にしない」ということにはならないからです。
公に奉ずるとは、結局のところ上であろうが下であろうが同じです。しかし、上には上の役目があります。安岡正篤先生も『東洋宰相学』の中で、「リーダーとなるべき者が読んで実行すべきものとして」推奨されていますが、重役の在り方というのは、佐藤一斎の『重職心得箇条』(文末参照)に尽くされていると思います。
また、「学ばない人」が「能力がない」のは明らかですが、重役に就けるに「いい人」だけではしんどいと思います。リーダーシップを発揮し多くを引っ張って行くわけですから、人がいいだけでは無理でしょう。重役に相応しいか否かは基本、それだけの責任を担う資格があるかどうか、ということです。
併せて、下の人達がその人を重役と仰ぐことに賛同するかどうか、も大事になります。人望とは、人がいいだけで出来るものではありません。社会や人を正しい方向に導いて行けるだけの能力が求められると共に、何時も公正無私の姿勢を貫き自分を正しく律して行かなければなりません。
『論語』の「子路第十三」に「其の身正しければ、令せざれども行わる。其の身正しからざれば、令すと雖(いえど)も従わず」や、「其の身を正しくすること能(あた)わざれば、人を正しくすることを如何(いかん)せん」という孔子の言があります。
どれほど知識・技術・才知に長けていたとしても、それだけで下は動きません。多くの弟子が孔子に従いあれだけの人望が集められたのも、彼自身が「修己治人(しゅうこちじん)…己を修めて人を治む」が出来ていたからこそです。重役たる者、常に自分の私利私欲の類を度外視し、様々なディシジョンメイキングをして行かねばなりません。

≪重職心得箇条―要約
一、小事に区々たらず、大事に抜目なし。重職の重たる字は肝要なり。
二、大度を以て寛容せよ。己に意あるもさしたる害無き時は他の意を用うべし。
三、祖先の法は重宝するも、慣習は時世によって変易して可なり。
四、自案無しに先例より入るは当今の通病なり。ただし先例も時宜に叶えば可なり。
五、機に従がうべし。
六、活眼にて視るべし。物事の内に入りては澄み見えず。
七、苛察は威厳ならず。人情を知るべし。
八、度量の大たること肝要なり。人を任用できぬが故に多事となる。
九、刑賞与奪の権は大事の儀なりて軽々しくせぬ事。
十、大小軽重の弁を失うべからず。時宜を知るべし。
十一、人を容るる気象と物を蓄る器量こそが大臣の体なり。
十二、貫徹すべき事と転化すべき事の視察あるべし。これ無くば我意の弊を免れ難し。
十三、信義の事、よくよく吟味あるべし。
十四、自然の顕れたるままにせよ。手数を省く事肝要なり。
十五、風儀は上より起こるものにして上下の風は一なり。
十六、打ち出してよきを隠すは悪し。物事を隠す風儀とならん。
十七、人君の初政は春の如し。人心新たに歓を発すべし。財務窮すも厳のみにては不可なり。




 

『習慣というもの』

2019年8月21日 16:20

BUSINESS INSIDER JAPANに「成功者、11の習慣」(19年6月9日)と題された記事があり、「感情をコントロールする」「読書が好き」「1人の時間を大切にする」等々と並んで「ルーティンにこだわる」ということが挙げられています。そこでは、『成功者は「決まったルーティンや儀式が毎日の始まりと終わりにある」と指摘』されています。
此のルーティンということで私の場合は、いつもマーケットから出発しています。寝る前に必ず欧米の金利・為替・株式・債券等々のマーケットはどうなっているかとチェックをし、起きて直ぐにそれらの相場がどうなったのかを確認します。その上でマーケットが大きく動いたとしたら、そこに如何なる事情・背景があり、一時的なものかどうかを探るわけです。之は、相場に生きる人間にとって必須だと思っています。
このようにして私は1974年に野村證券に入社して以来今日まで、過去45年に亘り上記の世界中のマーケットを見続けることを一つのルーティンにしてきました。之は、数多くの種々の金融業に身を置く者として相場がどういうふうに動いているのかに関し常に自分なりの主体的な判断を持たねばならない、との思いからやってきたのです。
但し、ルーティンと習慣とでは、少し違うような気がします。どちらかと言うと、ルーティンというのは良い悪いは別にして、やらねばならないとして毎日やるべきを機械的に熟(こな)す、といった類です。他方で習慣というのは、良い習慣と悪い習慣とがあると思います。
例えば、寝る前に酒を飲むとか、起きたら直ぐに煙草一服、といった習慣は健康上も余り良いとは言えず、悪い習慣に入りましょう。逆に良い習慣とは、例えば、常日頃から精神の糧になるような読書をし、その中で得た事柄を自分の今日の生活に如何に活かして行くかと考えること等であります。
あるいは、寝る前に自分の今日一日を振り返って見て反省する、というのも良い習慣の一つだと思います。人間としての生き方に問題はなかったか?とか、今日一日ベストを尽くしたか?…Have I done my best?、といった形で自らに問うて反省するのです。そしてまた、朝起きて活動を始めるに当たり、今日こそベストを尽くそう!…I’ll do my best!、といった具合に考えることはあっても良いように思います。こうした類を習慣にしている人は、人物も出来てくるものです。
『論語』の中にも「教えありて類(たぐい)なし」(衛霊公第十五の三十九)、あるいは「性(せい)、相(あい)近し。習えば、相遠し」(陽貨第十七の二)という孔子の言があります。前者は「人間には、教育による違いはあるが、生まれつきの違いはない」といった意味で、しっかりと学ぶことを怠らなければ、誰でも立派な人物になれるということです。また後者も似たような言葉で、「生まれた時は誰でも似たり寄ったりで、そんなに大きな差はない。その後の習慣や学習の違いによって、大きな差が出てくるのだ」といった意味になります。これ正に、孔子の言う通りだと私も思っています。




 


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