北尾吉孝日記

『常に積善を志す』

2019年5月30日 16:50

私が私淑する明治の知の巨人・安岡正篤先生は、「我々は悪を除くには急進的で、善に対しては保守的でなければならぬ」と述べておられます。前段に関しては文字通り、悪を除去すべく直ちに行動を起こし、一刻も早くそれをやり遂げようとする強い意志を持たねばならない、ということでしょう。本ブログでは以下、後段につき私が思うところを簡潔に述べて行きたいと思います。
結論から申し上げれば、こと善に対しては慌てて自己宣伝の如く売り込むのではなく、自然とそういう流れが出来、自然と伝わって行く中で善行をすべきである、というふうに理解したら良いのではないでしょうか。それは安岡先生が、人生を健康に生きて行く上で大事な三つのこと、「心中常に喜神を含むこと」「心中絶えず感謝の念を含むこと」「常に陰徳を志すこと」として、陰徳を積むことを挙げておられます。
此の「常に陰徳を志す」とは、「絶えず人知れぬ善いことをする」ということであります。「俺は世の為人の為に、之だけのことをしたんだ!」と言って回るのでなく、誰見ざる聞かざるの中で世に良いと思う事柄に対して一生懸命に取組むのです。安岡先生は御著書『運命を創る』の中で、「何か人知れず良心が満足するようなことを、大なり小なりやると、常に喜神を含む(…どんなに苦しいことに遭っても、心のどこか奥の方に喜びを持つ)ことができます」と言われますが、正にその通りだと思います。
また、陰徳を積めば精神が潑剌としてくるだけでなく、良い運が巡ってきます。「情けは人の為ならず」という言葉があるように、人の為にすることが軈(やが)て自分に返ってくるのです。『易経』の「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り」という教えも同じことを言っています。善行を積み重ねた家にはその功徳により幸せが訪れ、不善を積み重ねた家にはその報いとして災難が齎されることを説いています。
ですから、運命を良くする為には善因をつくらねばなりません。「善因善果(ぜんいんぜんか)・悪因悪果(あくいんあっか)」という禅語がありますが、之は良いことをやれば良い結果が生まれ悪いことをやれば悪い結果が生まれるといった意味です。但し、良い結果を期待してやるのではなく、陰徳と迄は行かずとも当たり前の行為として善行を積み重ねるのです。安岡先生も、ある意味複雑軽妙な因果律「数の法則」に従って善因善果・悪因悪果というようになると言われています。
拙著『ビジネスに活かす「論語」』のエピローグ「運命とは自ら切り開き、創っていくもの」にも書いたように、運命を切り開くには、自分の努力に関わる部分と偶然の齎す幸運に関わる部分があるでしょう。それに加えて、生き方によって運気を強くすることも出来るのではないかと思うのです。それは即ち、善行を施して行くという生き方です。運気を強くするには日々自分を律し、事の大小を問わず機会を見つけて陰徳を積むようにし、自らの心を常に綺麗にして置くことが大切だと思います。




 

『最高を極める努力』

2019年5月23日 13:40

天台宗の僧侶・堀澤祖門さん曰く、『70年近く行を続けてきたわけだけど、行そのものには終わりはない。ただね、終わりはないけれども、いつまでも「まだまだ」じゃダメ。不安感で覆われてしまうからね。それを断ち切るにはどこかで「よし」という気持ちを持たないといけない』とのことです。
堀澤さんは更に続けられて、『「よし」ということは終わりじゃなくて、自分で納得してまた新たに進んでいくということ。進行形と、ゴールに既に着いているということは同時なの。でも、自分で「よし」と手応えを感じるまでには50~60年かかったな』と言われています。
例えば画家は、「絵を何時何時までに完成して下さい」という注文を受けたら、一回ぐらいは延ばすかもしれませんが、そう度々その期限を延ばすわけには行きません。それゆえ自ずと、その期限内に今自分が出来るベストなところに挑戦するのです。但し、それが完全に自分も満足できるような点かと言うと、必ずしもそうではないかもしれません。
そういうふうに世の事柄には何処かで句切りがあるものです。そして句切りを設けない場合ダラダラになってしまうのは、人間である以上仕方がない部分もあろうかと思います。ですから一旦句切った方が、その間を必死になって集中してやり抜いて、良い結果に繋げることが出来たりもするでしょう。
一たび終わりを決めることで、一つ一つの過程夫々で最高を極める努力をして行くのです。何時まで経っても「いやいや、まだまだ、いや、まだだ」といったようでは、一生が終わりになってしまいます。やはり「人間終わりがある」という覚悟の中で生きて行くことが、今持てる全てを出し切った形での最高傑作に繋がって行くのだろうと思います。
松尾芭蕉が臨終の床にあって、「きのうの発句は今日の辞世、きょうの発句は明日の辞世、われ生涯いいすてし句々、一句として辞世ならざるはなし」(『花屋日記』)と弟子達に言っているのは、芭蕉が死を覚悟して日々真剣に生き切ったということをよく表しています。
人間いつ死ぬか分からない。だから芭蕉は、今日創った句が辞世の句になっても良いという覚悟で以て俳句に向き合っていたのです。そんな芭蕉の本当に最後となった辞世の句、それは「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」というものでした。我々も自分の生を生き切るべく、こうした先人の生き方に学び、時間を惜しんで、日々研鑽し努力し続けねばならないと思います。
一日は一生の縮図であり、一瞬一瞬の積み重ねが一日になり、一日の積み重ねが一ヶ月、一年、一生となります。そう考えれば、有限な時間を一瞬たりとも無駄には出来ません。一つのピリオドを迎える迄、その時その時を死ぬ気になって一生懸命やり抜くのです。そして次のステージではその経験が肥やしとなり、一段高いレベルに自分が到達していることでしょう。人生そうやって時時、最高を極める努力を積み重ねて行くということです。




 

『夢から全てが始まる』

2019年5月17日 15:00

「人間力・仕事力を高めるWEB chichi」に今年2月、「人気作家・浅見帆帆子が明かす好運が長続きしない3つの理由」と題された記事があり、その中で筆者は次の通り言われていました――夢や目標を持つ意味は、それを達成することだけではなくて、半分はその途中で起こる出来事や人との出会いによって自分を成長させることにあるんですよね。夢や目標って達成することにこだわり過ぎると、それに執着してしまって、逆に遠のいていくんです。
上記後半部に関し簡潔に私見を申し上げると、先ず抱いた夢への拘りが執着になるというふうにも思いませんし、況してや夢を持つこと自体を決して否定するべきではないと思います。夢を持つところから全てが始まるとは吉田松陰の至言、夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし――あらゆる事柄は夢から出発するわけで、我々は常に夢を持ち続けねばなりません。夢を持たないことには、理想もなければ計画もなく、実行もなければ成功もないのです。
此の松陰の「夢」というのは、言葉を換えればです。一つの理想を描き、そこに到達するんだといった強い意思をと言っても良いでしょう。志は、野心とは全く違います。志とは利他的なものであって、必ず世のため人のためということが入っていなければなりません。というのもまた、世のため人のためという要素が含まれていなければなりません。そして、その夢が結果において世のため人のためになるならば、大いに夢を抱きその実現を常に強く思い続けて、妥協せず必死になって追求して行ったら良いでしょう。
の実現とは一足飛びに行くわけでなく、それに向かって一歩一歩しかし着実な努力が必要です。それは着実な成果を生むための努力でなければならず、その歩みの一歩一歩が本当に正しいか否かを、ずっと検証して行かねばなりません。そうして、「その道を歩めば目的地に行けるか。もっと近道はないのか」といった反省を繰り返しながら、前に向けての策を真剣に練り続けることが求められるのです。
兎にも角にも、昔から「必要は発明の母」と言われますが、例えば鳥が飛んでいるのを見ては「私も空を飛んでみたい」とを持つことが第一です。これまでの人類の発明・発見というのは、やはり「〇〇をしたい」といった感情が出発点である気がします。そしてその必要性がため、考えに考えた末ふっと閃き、それをヒントにして、また考え抜いて目標を達成してきたのです。
夢が実現するかどうかは天の配剤です。また、夢にも世のため人のためといったことが含まれていなければ意味がありません。それが含まれていない夢は野心と同じです。天はこうした野心のみの夢の実現をサポートしないと思います。世のため人のためになることで夢を持って努力していれば、必ずその夢(志)を共有する仲間やその実現のための支援者が現れてくるでしょう。その意味で浅見さんの前段で言われていることは、その通りだと思います。




 


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