北尾吉孝日記

『一番最初に○○する人』

2020年10月16日 15:35

一番最初に謝る人は、一番勇気がある人。一番最初に許す人は、一番強い人。一番最初に忘れる人は、一番幸せな人。…The first to apologize is the bravest, the first to forgive is the strongest, and the first to forget is the happiest.--は、今年6月にリツイートしたものです。誰がどういうつもりで残した言葉かは知りませんが、本ブログで以下に私が思うところを簡潔に申し上げたいと思います。
先ず「一番最初に謝る人は、一番勇気がある人」。謝るとは自分の非を認めるということですから、ある面で勇気も必要です。もっと言えば非を認めるとは、自分の一部を否定するということであります。その自己否定の結果、謝る対象者に対して尊敬する心を持つとか恥じ入る心を持つといった、謝るために必要な様々な心の動きというものがあるはずです。その心の動きを持つということは、ある意味勇気があることかもしれません。
明治・大正・昭和と生き抜いた知の巨人である森信三先生も、『修身教授録』の中で「師説を吸収せんとせば、すべからくまず自らを空しうするを要す。これ即ち敬なり。故に敬はまた力なり」と述べておられます。誰かに非常に傾倒しその人から長所を出来るだけ取り入れようとする、言ってみれば、その人に感じる「敬」の気持ちに対しその対極にある「恥」の気持ちを抱く中で自分をある意味否定して行く、ということであります。
次に「一番最初に許す人は、一番強い人」。王陽明の言葉「天下の事、万変と雖(いえど)も吾が之に応ずる所以(ゆえん)は喜怒哀楽の四者を出でず」の中にも「怒」が含まれているように、怒りという感情を何らかの形で持った動物として天は我々人間を創りたもうたのです。従って之を治すは、至難の業なのだろうと思います。但し顔回の如く修養を積むことで、少なくとも激怒しても「怒りを遷さず」(『論語』雍也第六)、ある意味全てを許す位の包容力は持てるのかもしれません。
包容力というのは、そういう強さから出てくる部分があるのも確かだと思います。私は、「仁(じん)」の思想の原点に「(じょ)」があると考えています。恕とは他人に対する誠実さであり、如(ごと)しに心と書くように「我が心の如く」相手を思うということです。之は、慈愛の情・仁愛の心・惻隠(そくいん)の情と言い換えても良いでしょう。相手の動機や行為等々を理解し受け入れて許す寛大な心を持たなければならないと思います。このような心を持つには、自分を律する強い心が必要なのです。
そして最後に「一番最初に忘れる人は、一番幸せな人」。此の部分については全く以て同意出来ません。之は一言で言うと、極楽蜻蛉(ごくらくとんぼ…楽天的でのんきそうな者をあざけったりからかったりしていう語)の類ではないでしょうか。




 

『大人とは』

2020年10月9日 12:05

『「大人」とは「本当のことをわざわざ言わない人々」』(20年8月14日)と題されたブログ記事で筆者は、『「人間関係のマサツ」を避けて立ち回ることこそ、世渡りの本質だ』として、『「話せばわかる」という言葉は美しいが、残念ながら、人間同士は話してもわからないどころか、話したら殺し合いになることもある』と述べられています。
そして本記事は、次のように結ばれています――人を傷つけない「大人」は多くの人にとって望まれる。真実かどうかよりも、「主観的な世界」を心地よくしてくる人のほうが、社会的に歓迎される。「知りたくもないこと」を本人に突きつけて「現実を見せる」などというのは、単なる下品な悪趣味であり、エゴである。
率直に申し上げて、私には余りピンとこない見解に感じられます。上記は、単なる事勿(なか)れ主義に過ぎないのではないでしょうか。江戸時代の狂歌に、「世の中は左様しからばごもっとも、そうでござるか、しかと存ぜぬ」というのがあります。此の「八方美人主義」的な処身法は「当時人気の幸福への処世術」だったわけですが、正に之も主体性の喪失そのものと言えましょう。
いま私が「大人とは?」と問われれば、「独立自尊」ということだと答えます。地位や金あるいは妻子を頼って生きている人は、例えば「退職して地位をなくしたら、自分はどうなるのだろう…」とか「家内が居なくなったら、自分はどうなってしまうのか…」といったようになってしまいます。
そうしたもの一切を頼らずに、正に「一剣を持して起つ」宮本武蔵のような「絶対」の境地に到る位の姿勢を持って、自ずからに足りて何ら他に期待することなく徹底して自分自身を相手にして生きるのが大人だと思います。そうして主体的に生きている人は、自己の絶対を尊ぶという「独尊」の世界にあって、「互尊」という感情を他の独尊の人に対して抱くものであります。
付和雷同する小人的な人は自分の主体性や自分の明確な主義主張を持たない人で、仮に持っていたとしてもそれを明らかにせず都合に応じて調子を合わせるような人で、私自身こうした類の人間は余り好きではありません。私は、人に厳しい事柄でも自分の考えをはっきりと言葉にすべきだと思っています。その上で人の考えが違っていれば、それはそれで尊重し自分自身で今一度検証して、それでも自分が正しいと思ったらば、堂々と発言して行くのが大人だと思います。
同時にまた、我々の人間社会は秩序維持を図りながら共存して行かねばならない、といったことをきちっと分かっている必要がありましょう。「人間は社会的動物である」とアリストテレスが言い、「人間は常に弧に非ずして群である」と荀子が述べている通り、人というものは他人や社会の干渉なしには存在し得ない、自分一人では生き得ない動物です。自由があれば片一方で規律もあるわけで、人に迷惑を掛けぬよう道徳というものをきちんと持っているのが大人だと思います。
此の道徳ということで私は嘗て『PRESIDENT』の取材を受けた際に、『普段、顕加(けんが:目に見える何かをして頂いたことへの感謝)だけでなく冥加(みょうが:表に表れない、見えないものへの感謝)の世界に至るまでありがたいという気持ちで生きている人は、「ありがとう」という言葉がスッと出る。相手を敬い、拙い自分を恥ずかしく思う気持ちがあるからであり、だからこそ人は成長する』と述べたことがあります。
人という独り立ちする迄に大変長い時間を要する動物にとって、その間醸成された感謝の念即ちありがたいという気持ちこそが、社会を生きて行くための大事な道徳的要素になって行くのです。そして大人たるべく人間は、社会に出て後も全てに対する冥加も含め、あらゆる事柄に感謝する気持ちを常々持たねばならないということです。




 

『論語』の「雍也第六の三」に、「弟子(ていし)、孰(だれ)か学を好むと為す・・・お弟子さんの中で誰が学問好きですか?」という魯の哀公の質問に対し、孔子が「顔回なる者あり、学を好む。怒りを遷(うつ)さず、過ちを弐(ふたた)びせず・・・顔回と言う者が学問好きで、人に八つ当たりせず、同じ過ちを犯すことはありませんでした」と答える一節があります。
孔子は顔回の「学を好む」部分だけではなく、わざわざ「過ちを弐びせず」という部分も褒めて言っているわけです。孔子も、それを非常に立派な行為として見ていたのだろうと思います。此の顔回というのは、元気であれば孔子の後を継いだ人間で、孔子の言が正に天の言と思って生きてきた人物です。
「既に吾が才を竭(つ)くす。立つ所ありて卓爾(たくじ)たるが如し。これに従わんと欲すと雖(いえど)も、由(よし)なきのみ」(子罕第九の十一)とは顔回が嘆息して発した言葉ですが、顔回が前に進んでも孔子は常々更に先に行っている、というように孔子に心から私淑してきました。
『論語』の「為政第二の九」に、孔子が顔回を評した次の面白いがあります――吾(われ)回と言うこと終日、違(たが)わざること愚なるが如し。退きて其の私(し)を省(み)れば、亦(また)以て発するに足れり。回や愚ならず・・・顔回と一日中話をしていても、なんでも「はいはい、はいはい」というばかりで、一切反論しない。その様子はまるで愚か者のようだ。しかし、顔回の普段の様子を見ていると、私の言葉をしっかり守って実行している。そういうのを見ると、顔回は愚かじゃないな。
孔子自身も言っているように、決して同じ過ちを犯さなかった顔回は普通の人間ではないのでしょう。しかし我々普通の人間は、ごく普通に過つものです。そしてまた、それを繰り返すことも、ごく普通にあります。我々は、その繰り返しを出来るだけ減らして行くということに、努めねばなりません。
では如何にしてそれを減じて行くかと言えば、先ず己の言動が間違いであるということを、深く認識せねばなりません。次にそれを改めるべく、具体的なアクションが求められます。簡単に忘れぬようメモをし、毎日それを見る。それを壁に貼るのも結構で、毎日読み上げる――一度深く認識したつもりでも二度三度四度と繰り返し、出来得る限り同じように過たぬようにして行くのです。
は常日頃、自分自身にも社員に対しても「過ちは過ちと認めて、過ちを二度と繰り返さないように」と言い聞かせています。過ちは誰でもするものですから、過つことは仕方がありません。但し、過った後の行動がどうなのかが問題になります。「小人の過つや、必ず文(かざ)る」(子張第十九の八)というように、とかく小人は自分が過った場合それを素直に認めずに、人のせいにしたり、あれこれと言い訳をしたりするものです。
そうではなくて「君子は諸(これ)を己に求め」(衛霊公第十五の二十一)、繰り返し過たぬよう細心の注意を払うことが大事であって、それを改めようとしないのが本当の過ちであります。「過ちて改めざる、是(こ)れを過ちと謂(い)う」(衛霊公第十五の三十)わけで、君子たる者「過てば則(すなわ)ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」(学而第一の八)という姿勢を持たなければならないのです。




 
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