北尾吉孝日記

『初心忘るべからずか?』

2021年5月12日 18:00

世阿弥著『花鏡(かきょう)』に、「初心(しょしん)忘るべからず」とあります。言い古された言葉で巷間ではその通りだと受け止められますが、果たして本当に初心は忘れてはいけないものでしょうか。と申しますのも、自分自身が大して分かっていないことでも、初心を貫くことが真に良いのかどうかと思う部分があるからです。
2年半程前、『心眼を開く』と題したを上梓しました。此の心眼とは辞書的に言えば、物事の真の姿をはっきり見抜く心の働きということです。私流に心眼を解釈すると、此の心眼には次の二つの大きな働き、①自己すなわち自分自身の本当の姿を見ること及び②自己以外の他を見ること、があると考えます。
私は初心を持ったタイミングが中国古典で言う「自得(じとく)」に通ずる①が十分に出来ているかが非常に大事になると思っています。つまり根本において本当の自分、絶対的な自己を掴んでいるか否かということです。
言うまでもなく、②の心眼は①の自得がある程度出来るようでなければ、他人の心あるいは様々な物事の真の姿など、はっきりと見られるわけがないでしょう。自得こそが全ての出発点であると明治の知の巨人である安岡正篤先生も説かれている通りだと思います。
心の奥深くに潜む自分自身を知るのは極めて難しく、人生で色々な経験を重ねて行く中で一つひとつ分かってくるものです。ですから、ある程度の年齢にならないと、また自得も出来ないわけです。あの孔子も50歳になって漸く天命を知ったと述懐しています。
勿論、若くして自得出来て「この道に入るんだ」として絶対に揺るぎ無きものがある場合、それはそれで良いと思います。但し、余りに早くから「初心忘るべからず」では間違った道で力を入れ続け、後に悲劇に見舞われることにもなりかねません。自分が分からねば如何に生くべきかも分かるはずがありません。私自身この自得について若い頃から随分考えてきましたが、自分が天職と思える仕事は何かは中々分からないものです。
人間、自得から出発した上で、「自分は天から、こういう能力が与えられた。こういうのを開発すれば、もっと世のため人のためになる。だから、之を志として生きて行こう」、といった「初志貫徹」であれば分かります。しかし世に軽軽に使われる「初心忘るべからず」の多くは、必ずしもそうではないように思うのです。
安岡先生も言われるように、君子というのは「『中庸』にある如く、貧賤のときは貧賤に素し、富貴には富貴に素し、夷狄(いてき)には夷狄の境地に素し、患難に対処してもその境地にあって自得する」ものです。我々は君子を目指し、いつ如何なる境地にあっても、その場に遊離することなく物事に処して行くことが大切なのです。




 

『読書というもの』

2021年4月30日 16:00

私は前回のブログ『心を養う』で、佳書(…人間的教養を豊かにする古典とか歴史・哲学の書物)を読むことについて述べました。太古の昔より洋の東西を問わずして人間の普遍的真理というものが、書によって伝承されてきているとは実に素晴らしいことだと思います。
読書の効用としては、「世の中には色々な考え方があるもんだ」「こんな経験をしている人がいるんだなぁ」等と、人間の多様性を知るということが一つあります。また、「こういう考え方があるけれども、こういうふうにも言えるのではないか」といった形で、自分の考えを更に深めるということも一つあります。
あるいは、書と対話しながら自分の頭の中で、己をある意味鍛えて行くことも出来ます。従って、ある程度そうした主体性を持って自分自身の確立を目指す人というのは、書が無いと不安にもなるかもしれません。この不安という言葉が適当かは分かりませんが、私自身は強い寂寥感(せきりょうかん)を覚えるものです。
書があればこそ、故人や先哲と会話が出来る喜びが得られ、一種の好奇心が満たされて行く部分もあります。ですから、コロナ禍で自粛を余儀なくされたがため読書をした人とか、コロナ禍でなければ読書しない人などというのは、深淵なる読書の持つ意味を根本的に理解しないで、暇潰しの如く考えているように思われます。
人間、常日頃から様々な書物を読むことが大事です。但し、ジャンルを問わず所謂多読をして後に何も残らないということではいけません。之は、実に詰まらない読書のやり方であります。
やはり、精神の糧になり知行合一に繋がるような書の読み方・選び方が良いと思います。私の場合それが中国古典を中心とした古典なのですが、歴史の篩に掛かった書物にある言葉一つ一つには、深い意味と重みを感じるものです。
それからもう一つ、「著者の主張は尤もだ。この本は良かった」「あぁ、この本も良かった」「これは良い本だなぁ。この人の考えは道理に適っている」等々と、その内容を次々鵜呑みにしてしまうのではいけません。
『孟子』に、「尽(ことごと)く書を信ずれば即ち書無きに如(し)かず」(この場合の「書」は『書経』のことです)とあるように、「書物を読んでも、批判の目を持たずそのすべてを信ずるならば、かえって書物を読まないほうがよい」のです。
何れにせよ読書に当たっては常に、主体的・批判的に、知識欲・好奇心を持って、書に立ち向かって行くことが大事であります。そして書を読む目的たるや、精神の糧にする、ということだと思います。




 

『心を養う』

2021年4月22日 14:55

株式会社財界研究所より『心を養う』という本を上梓しました。本日より全国書店にて発売が開始されます。本書は「北尾吉孝日記」を再構成したもので、08年9月に上梓した第1巻『時局を洞察する』から数えて13巻目に当たります。
この日記自体は、07年4月12日よりツイッター的な形で執筆し始めており、本年14年目を迎えるわけですが、内容も様々な分野に拡大しています。
今回は、本書のタイトルを『心を養う』としました。このタイトルを見て読者の中には、どうやって心を養うのか具体的に知りたいと思われる方もいるでしょうから、その点について若干触れておきます。
結論から言えば佳書(かしょ)を読むことです。佳書とは、安岡正篤先生は次のように言われています――佳書とは、それを読むことによって、我々の呼吸・血液・体液を清くし、精神の鼓動を昴(たか)めたり、沈(おち)着かせたり、霊魂を神仏に近づけたりする書のことであります。
安岡先生の上記にあるような書は多くの人がこれまで読んだことがないと言われるかもしれませんので、これを私流に平たく言うと精神の糧になるような書ということです。もっと具体的に言うと人間的教養を豊かにする古典とか歴史・哲学の書物です。そうした佳書を味読することでその書のエッセンスを掴むのです。そしてそのエッセンスが自らの血や肉となるように知行合一的に日々の生活の中で実践していくのです。
佳書を読む以外でも心を養うことに大変役立つことは佳人の謦咳に接することですが、なかなかこれは難しいことです。その点佳書はいつでも手に執れます。
歴史・時間という篩にかかった東西の古典と一般的に呼ばれる書は、幸い沢山あり当たり外れはないと言えましょう。きっとそうした書を味読していけば、全人的な教養や人間学的意味における哲理・哲学が品性豊かな立派な人格形成に役立つはずです。
私のブログをお読みになり、もし得るところがあれば、血肉化し、皆様方の実際の日常生活の中でそれが行動に移されるようになれば、私として望外の喜びです。本書が読者の皆様の日々の修養の一助となれば、幸甚であります。




 
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