北尾吉孝日記


プレジデントオンラインに半年程前、『僧侶に聞く「生きがいが無い人は、今後の人生をどう過ごしたらいいか」悩みがゼロになる秘訣は「中道」』と題された記事がありました。看護師・僧侶である筆者曰く、「生きがいは持たなくていい」ということで、之が「中道」であるとされています。
此の「中道」は儒教流に言えば、「中庸」であろうかと思います。「中庸の徳たるや、其れ至れるかな…中庸は道徳の規範として、最高至上である」(『論語』雍也第六の二十九)ということで中々そこには到達し得ない徳ですが、私見を申し上げれば「悩みゼロ」が「生きがい」になるという事と中庸とは余り関係ないような気がします。
人間何ゆえ悩むかと考えてみるに、自分の目算外れとか自分の不運を嘆くとか、様々あろうかと思います。そうした悩み或いは悲観的な思考を打ち破ろうとしたら、それは私が何時も言うように「天に任せる」「運に任せる」ということです。「任天・任運」は人生を良き方に向かわせるべく、大切な考え方であります。何か上手く行かないことがあったとしても、「これは天が判断したことだから、くよくよする必要なし」と受け止めるのです。「失敗でなく、こうなった方が寧ろベターなんだ」とか、「将来の成功を目指しその失敗を教訓にしなさい、という天の采配かもしれない」とかと、考えれば良いのです。こうして天にその全責任をある意味押し付けて生きたらば、気がぐっと楽になり余計な悩み無くして常に前向きでいられると思います。
孟子』の中に、「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志(しんし)を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓えせしめ、其の身を空乏にし、行ひ其の為すところに払乱(ふつらん)せしむ。心を動かし、性を忍び、その能(あた)はざる所を曾益(ぞうえき)せしむる所以(ゆえん)なり」とあります。人生、予想もしないような困難にも遭遇します。そんな時不遇を嘆くのではなく、天が次なる飛躍のため準備段階として己に与えたもうた試練だと思い、そのままを素直に全て受け入れ全てを天に任せる、といった態度が一番良いのではないかと私は思っています。
一種の相対観に基づき悲観的な見方ばかりをする中で生きていますと、人間僻(ひが)みっぽくなりますし大体性格が悪くなるものです。「あの人はどの学校を卒業した/私はこんな学校しか出ていない」「あの人は金持ちだ/私は貧乏だ」「あの人は美しい/私はブス」「あの人は賢い/自分は愚かだ」--明治の知の巨人・森信三先生が言われる通り、あらゆる苦は相対観から出発します。そうした相対観が如何に虚しいものかを知れば、人間の苦はなくなります。「天は二物を与えず」と言うけれども、別に別嬪でなくとも非常に性格が良く気立てが良くて世間から大変な評価をされ、結果として幸せな家庭を築くことが出来る女性も数多いるでしょう。
あるいは「賢愚一如」という言葉がありますが、我々人間を創りたもうた絶対神から見れば、人間の知恵の差など所詮微々たるもので、人間の差など意味がないのです。例えば『論語』の「先進第十一の十八」に、「柴(さい)や愚。参(しん)や魯。師や辟。由や喭(がん)」とあります。一番弟子の顔回が生きていれば孔子を継ぐのは勿論顔回なのですが、顔回は孔子より先に死んだがため、結果として参(曾子)が実質的に孔子を継ぐことになりました。それは、孔子の言葉にある通り曾子は魯(のろま)であり少し愚鈍なのですが、鈍であるからこそ、それだけ毎年こつこつ積み上げて行く努力を一生懸命し続けて、多くを身に付けたからです。天才である必要性もなければ、曾子の如く鈍であっても構いません。やはり一番大事なのは、ぐだぐだ悩まずに唯ひたすら努力をし最終的な結果に対しては、「任天・任運」に徹するということです。
世の全ては最終的に、辻褄が合うように出来ています。良きを受け有頂天になっているでなく、悪しきを受け悲嘆に暮れることなく、また良い事柄があると思い生きて行くのです。「禍福は糾える縄の如し」「人間万事塞翁が馬」というように、何が禍になり何が福になるかは分からぬものです。どんな結果もその方が良かったとして事柄全てを捉えると、次に向けてよりポジティブに考え易くなるでしょう。「生きがい」が有るとか無いとか持たなくて良いとかと、騒いだところで仕方ない話です。それよりも、今その時与えられている仕事等に一生懸命取り組む中で、自分の天命とは一体如何なるものかを模索し続けることが大事です。二宮尊徳翁が「積小為大…小を積みて大と為す」と説かれるように、人生は積み上げて行くものであります。本物の人物になって行くために、「人事を尽くして天命を待つ」のです。




 

『判断の規矩を持つ』

2021年2月26日 13:55

裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められることができる、揺るがない自分がいることが信じることと思いました――昨年ある映画の完成報告イベントで、信じるということにつき、女優の芦田愛菜さんはこう述べられたそうです。
そして彼女は更に、「揺るがない軸を持つことは難しい。だからこそ人は『信じる』と口に出して、成功したい自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかなと思いました」と続けられたとのことですが、未だ16歳にして確かに一面ある種の悟りを開いたかのようにも感じられます。
他方同時に「揺るがない自分がいることが信じること」と言われていますが、「揺るがない自分」が何であるかは不明瞭で、突き詰めて行くと何か考えてしまうような難しい話です。「揺るがない自分」を揺るがすのは、一体何なのでしょうか。私に言わせれば先ず大前提として、真に判断の規矩(きく…考えや行動の規準とするもの)を持っていればこそ、自分が揺るがずに在り得るのだと思います。
私などは次の三文字、「信…約束を破ったり信頼を裏切るような事をしない事」「義…正しい事柄を行う事」「仁…相手の立場になって物事を考える事」、を何時もあらゆる判断をする場合の規矩としています。事に当たる時この三文字に照らし合わせ自分自身に厳しく問うて判断すれば、軸がぶれることなく的確に対処できると思っています。
人間、軸を持っていないと常にぶれます。芦田さんがどうやって気付いたのかは分かりませんが、冒頭の引用からは彼女がある種の軸を持っていることは窺い知れます。但し、それが如何なる軸であるのかは判然としません。
併せて人のことに関して言えば、やはり人を判断する時には自分の目で見、自分の耳で確かめることが不可欠です。単に「誰々が言っていたから」といった程度の噂の類で人を評するのではなくて、自分自身で見たもの・聞いたものの内十分確かめられた事柄以外ある意味判断の材料にしない、ということが我々の考え方として一つ求められるように思います。
単なるイメージに対し自分で勝手にその人像を作り上げて後、「その人の見えなかった部分が見えた」のであれば、そもそも自分の人を見る目が未だ出来ていなかっただけではないか、というふうにも思えます。
昨年の米大統領選挙を例に挙げるまでもなく、これだけフェイクニュース溢れる今の世で信に足る情報は、これまた限られているのかもしれません。ですから我々は何事において、先ず判断の規矩を明確にした上で、自分の耳目で今迄よりも可能な限り徹底して様々チェックして行く必要がありましょう。常々そう在らぬ限りは本当の信には繋がり得ず、大きな間違いをおかすことにもなるのです。




 

『知性の高い人』

2021年2月18日 16:10

アイルランド出身の作家・オスカー・ワイルド(1854年-1900年)は、「現代は労働過剰で教育不足の時代だ。人々は勤勉になるあまり、完全に知性を失っている」という言葉を残したとされています。あるいはレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年-1519年)などは、「何かを主張をするのに権威を持ち出す人は全て、知性を使っているのではなく、ただ記憶力を使っているだけである」との指摘を行っていたようです。
このように知性ということでは、偉人と称される様々な人が色々な言い方をしています。国語辞書を見ますと、知性とは「1 物事を知り、考え、判断する能力。人間の、知的作用を営む能力」「2 比較・抽象・概念化・判断・推理などの機能によって、感覚的所与を認識にまでつくりあげる精神的能力」と書かれています。
以下、本テーマで私が思うところを簡潔に述べて行きますと、先ず知性の高い人というのは言うまでもなく、英国社数理が非常に強い人を指している言葉だとは思いません。それは、私が私淑する安岡正篤先生の言葉を借りて言えば、「思考の三原則」に則って物事を考えられる人を指しているのでありましょう。
即ち、「枝葉末節ではなく根本を見る」「中長期的な視点を持つ」「多面的に見る」の三つの側面に拠って物事を考察できるということです。此の正しい考え方を身に付けた人は、かなりの程度物事の本質を見極められる知性の高い人と言えるのではないかと思います。
そして更には知性の高い人を仏教流に述べるとすれば、「徳慧:とくけい、とくえ」と言われる知が挙げられましょう。之は、仏教において一切の諸々の智慧の中で「最も第一たり、無上、無比、無等なるものにして、勝るものなし」と説明される、「般若」の智に通ずるものとされています。
終局的には悟りに至る実践的な智慧と言っても良いかもしれませんが、そうした知恵というのは、学んで理解する「学知」を越えたものです。「知行合一:ちぎょうごういつ、ちこうごういつ」を進める中で様々修行した徳性の高い人間にあって初めて得られる知恵であります。
こうした類は学力試験などでは全く計り得ません。学校の成績は一部学力を計る上での目安になるかもしれませんが、その人間が有する全人的な知力を計る上では、ほぼ役に立たないのです。私は、己を知り、人を知り、世のため、人のため、に活きるような知恵を身に付けた人でないと、本当の意味で知性が高い人とは言えないのではないかと思っています。
因みに、弟子から「どうやってあなたは悟りをひらきましたか」と聞かれたお釈迦様が「自分は六波羅密を実践した」と答えた、といった話も含め、徳慧や般若に関しては嘗てのブログ『直観力と古典』(10年3月1日)でも詳述しましたので、御興味のある方は是非そちらも御覧頂ければと思います。




 
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