北尾吉孝日記

『師について』

2011年10月6日 14:15
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拙著『森信三に学ぶ人間力』の30,31ページに日本が誇るべき偉大な哲学者であり、教育者である森信三先生の『修身教授録』から「人物を知る5つの標準」を下記の通り紹介しておきました。

人を知る標準としては、
第一には、それがいかなる人を師匠としているか、ということであり、
第二には、その人がいかなることをもって、自分の一生の目標としているかということであり、
第三には、その人が今日までいかなる事をして来たかということ、すなわちその人の今日までの経歴であります。
そして第四には、その人の愛読書がいかなるものかということであり、
そして最後がその人の友人いかんということであります。

これら五点はすべて相互に関連しています。例えば、いかなる師をもつかで、愛読書や人生の目標は強く影響されるでしょう。ですから、これらのなかで、他への影響力の点で何が重要であるかといえば、第一の師匠であるといえましょう。

私の場合、勿論父親から影響を受けた部分も結構多いとは思いますが、『論語』を中心とする中国古典、あるいは明治時代の二大巨人、安岡正篤と森信三といった方々が私の師ではないかと考えています。
目の前で師と触れ合い師の呼吸を感ずるというような生きた状況において師と仰ぐ人の謦咳に接するというのが最も望ましいのは言うまでもありませんが、残念ながら私のようにそれが叶わぬ場合は偉人が残した書物を読込み、そこから様々な教えを乞うて血肉化して行くということです(参考『読書の在り方』)。
そして、結局はそれをベースに自らの意志で自らを鍛えるというように正に「自修の人」といったことなのであろうと思いますが、ではどのようにして自らを鍛えれば良いのかと言えば、それはあくまでも社会生活や仕事を除いて他にはないと私は認識しています。
何のベースも持たずに自分を磨くというのは言うまでもなく非常に難しいことであって、やはり自分の範とすべきものがあり、その人物がどのようにしてそうなり得たのかといったことを学び、そして初めて自分もその人物に近付こうという思いに駆られることにもなるわけですから、そうした意味でも師というのは非常に大きなものなのです。
昔の人というのが師を求めて色々な所を旅し、そしてこれと思う人の所で「私の師になってください」と三日三晩立ち尽くめ、三日三晩座り尽くめでお願いしていたといった類の話はよく聞きますが、現代においてそうした人を見ることはありません。
また、幸運にも折角師に恵まれたにも拘らず、その有難さに気付くことなく安易な道を選ぶというような人もいるわけで、師に恵まれたとは言い難い私からすれば信じられないことです。
今年4月『2011年度入社式訓示』と題したブログでも下記のように述べましたが、やはり素直に師の言の全てを受け入れて謙虚に自分を反省し、そして師が実践していることの全てに挑戦して行くということが大事なのであり、そういう中で自分というのは磨かれることになるのであろうと私は思っています。

【若い時に最も大事なことは「素直さ」「謙虚さ」であって、そのようなものを持たない人は絶対に伸びては行きません。
謙虚で素直な人はスポンジが水を吸い込むが如くあらゆることを吸収して行くのであり、そしてその上で職業人としての自己を確立して行けば良いのです。】




 

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