北尾吉孝日記

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何を学習するにしてもそうですが、結局自らが主体性を持ってやろうと決意し、そして一心不乱に取り組んで行くということが非常に重要なのであろうと思います。
種々の学問がある中で一番のベースになるのは、中国古典で昔から言われている本学、即ち今風に言えば、「人間如何に在るべきか」「人生如何に生きるべきか」といった人間学というものです。
そしてそこに加わるところの技能や知識といったものに関わる末学、換言すれば時務学と称するものがあるわけですが、此の末学の根底にはやはり本学をきちっと修めて置くということが大事ではないかと思います(※1)。
末学を以て本学とするのは正に本末転倒であって、人間としてこの世に生を受け、どのような人生を世のため人のために送って行くかということを学ぶ本の学こそが、あらゆる学の基本であり「本学なくして末学なし」というふうに私は考えています(※1)。
例えば、世の常識を変えるかもしれないようなノーベル賞級の世界的大発明をしたとして、それは何のために為したのかと言えば、社会をより豊かにしたり人間をより高次に導いたりするということのためではないかと思います(※2)。
そしてそこにはやはり、自分自身を含め人間に対して何かをしたいという気持ち、あるいは自分は他の存在によって生かされているという自覚を持ち社会に対して恩返しをしようという気持ちがあって、結果として一心不乱に取り組み世を驚かすような大発明に繋がって行くということもあるわけです(※3)。
「現状はこうだが、こういうふうに変えたらもっと良くなるのではないか」という考えを持って研究に取り組むわけで、「俺はノーベル賞を貰うためだけに研究しているんだ」という人に私は御目に掛かったことがありません。
ノーベル文学賞などにもそういう部分が如実に現れており、「社会の現状を如何に変革したいか」「人間をより高次に導くためにどう在らねばならないか」といったことを、小説や戯曲等の文学という形に表しているのではないでしょうか。
そもそも我々はゼロから何事も為し得ないのであって、研究自体にあっても多くの先人達が築いたベースがあるからこそ、積み上げが可能となりそこに新たな発見があるわけです。
そういう意味で言うと、どれ程卓越した科学者であろうとも偉大な先人達の研究を礎にせねば何ものも生み得ないということであり、そしてまた自らが生んだものをベースにしながら次の世代が更に新たなものを生んで行くという中で、社会というものは進歩し人類の英知は進化してきたのであろうと私は思っています。

参考
※1:2011年4月4日北尾吉孝日記『2011年度入社式訓示
※2:2009年5月7日北尾吉孝日記『二宮尊徳の三徳
※3:2010年12月6日北尾吉孝日記『個人と大衆





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  1. 2009年5月7日『二宮尊徳の三徳』を拝見して、思い出しました。
    父が多分小学校の時に教わったと思われる「二宮金次郎」歌です。
    「庭刈り縄綯い草鞋を作り、親の手を助け弟を世話し、兄弟仲良く孝行を尽くす。手本は二宮金次郎」という歌詞だったと思います。かなりご年配の方でないとご存じないと思います。
    戦前の初等教育は「読み書きそろばん」とともに人間学の基本をきちんと教えようとしていたのですね。

  2. 『二宮金次郎』の歌詞
    「柴刈り縄綯い・・」の間違いでした。夫が庭の芝刈りをしていたので、誤入力してしまいました。

  3. SESCによるSBI証券の検査は、通常の検査という理解でよろしいですよね?何か、外野が騒がしいようなので、念のためお聞きしました。

  4. 「本学なくして末学なし」・・・・。 
    旧制高校の役割は、この「本学」重視にあったのかと思います。
    そういう意味では、「末学」重視の昨今は嘆かわしい限り。「子頭のいい」程度の人がもてはやされ、そうした人がリーダーになるというのは、滅びの元。
    最近、北尾さんのような趣旨の発言が、少しづつ世の中で増えてきているような気もします。これが希望のひかりかと。
    私も、そういう生き方をしていきたいものと改めて思います。
    ありがとうございました。

  5. >通りすがり 様
    仰る通りの御理解で間違い御座いません。3年2ヶ月ぶりの検査です。



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