北尾吉孝日記

『忘ということ』

2013年3月7日 18:28
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「忘」ということを神は此の人類のみならず、あらゆる動物に与えているのかもしれません。
我々人間は少なくとも自ら「忘」を意識出来ますから、「忘」ということ自体の素晴らしさ或いは「忘」を与え賜うた造化(万物の創造主であり神であり天)の偉大さを知ることが出来ます(※1)。
此の間、愛娘同様に可愛がっていた愛犬のジャスミンが死に私は悲しみのどん底にいたのですが、日を追うに従ってその悲しみは薄らいで行っています(※2)。
勿論、ある時にぱっと思い出し悲しくなることも未だありますが、四六時中考え続け悲しみに浸っていたところから段々と薄らいできています。
要するに死別・失恋・その他諸々の当事者にとっての深い悲しみ、あるいは当事者の周りの人達の大きな悲しみは、時が経つに連れて忘却の彼方とまでは言わずとも、少しずつ脳裏から消えて行き何かの機会に思い出す程度に変わって行くということです。
そういう意味では造化が与え賜うた「忘」という素晴らしい一種の贈り物が人間にとって悲しいことをそうした形で自然と忘れさせるようにしてくれています。
その一方で楽しいことはと言えば、「あの人とゴルフをしてどうだった」とか「誰々と酒を飲んでどうだった」といった「あの時は楽しかった」という思い出は、それ程時間を要せずにその殆どが消え去って行くと思います。
また事業を行っている立場で言えば、此の事業をここまで成功させたという喜びは、事業を営んでいる限りにおいて、ある面で消え去らないかもしれません。
勿論、日々新たな問題が生じ新たな挑戦をしていますから、その喜びに浸っているということでは全くありませんが、私は事業を行っている中で一つ一つ積み重ねて行く喜びをある意味感じています。
単発的な喜びというのは、忘却の彼方に消え去って行くのであろうと思いますが、積み重ねて行く喜びというのは、夫々の時代においてやはり残って行くのでありましょう。
何れにせよ「どういうことを忘れるのか」や「どういうことを忘れるべきか」、あるいは「どういうふうに忘れるのか」というようなことは、全く考える必要はありません。
忘れるべきものは自然と忘れて行き、忘れてはいけないものは心の中に残り、少なくとも潜在意識の中から直ぐに顕在化し得るものとして残って行くように造化は我々をつくっていると思います。
最後に「忘」という文脈で仏教について考えますと、例えば法事の種類として初七日・二七日・四十九日・三回忌・七回忌・十三回忌等々と色々ありますが、之は別にお坊さんを喜ばせるためのものだけではないのです。そこには深い意味があるのだと思っています。
即ち、親族一同あるいは友人等が葬式の日に集まり、初七日・二七日・三七日・四十九日と重ね段々と集まる人数は減って行くのかもしれませんが、その集まるという中で様々な準備等に追われ、残された家族はある意味故人を失った悲しみを忘れて行くことが出来るわけです。
そういうタイミングにおいて、残された家族が悲しみに明け暮れている暇もなく次々に何かをせねばならず非常に忙しくさせている、という深い意味があるように思います。
更に考えてみれば「仏縁」という言葉がありますが、例えば親戚だということは知っていても殆ど会うことがないような人と会ったり、あるいは海外に住んでいるような人が遠路はるばる出てきてぱっと会ったりするということがあります。
そういう仏の縁で皆が集まり、ある人と再会し新しい親交が始まって行ったり、あるいは偶然会った友人等の中からまた新しい世界が広がって行ったり、というふうに大変不思議なものです。
そしてまた、血の繋がっていない親戚の中で結婚話が出てくるというようなケースも聞いたことがありますが、此の仏縁というのは中々面白いものだと思っています。

参考
※1:2010年11月4日北尾吉孝日記『地球環境危機下で希求せられる東洋の自然観
※2:2013年2月21日北尾吉孝日記『愛娘の死




 

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