北尾吉孝日記

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リクナビNEXTにも「ゆとり世代VSオーバー30 愛憎のギャップ抗争42連発」という記事がありますが、世代間ギャップということは、あらゆる面において良く指摘される問題です。
叱るということを例に考えますと、怒る人が年を取っていて、怒られる人が若いというケースが多いのだろうと思いますが、その時に世代間での受ける感覚がずれているというわけです。
怒った結果として良いように働かず、寧ろマイナスに働くということであれば、怒ってみても仕方がないのかもしれませんし、怒っている理由が怒られている方に理解されていないからこそ、そういうことが起こるのかもしれません。
他方、怒る方にしても取るに足りない事柄で叱っているのか、あるいは八つ当たりしているのかといった要素もあるのかもしれませんが、本当に意味があって叱るべきを叱っているのであれば、世代間の受け止め方の差はさほどないと私は捉えています。
即ち、怒るべきタイミングで怒るべき内容を怒るべき方法で怒ったら、世代間の感覚の相違というものは本質的な問題にはならないということであって、人間性というのはそれ程簡単に変わるものではありません。
要するに、怒る内容そのものについて明確な理由がきちっとあるのであれば、そうした感覚のずれを余り意識する必要もないと思いますし、そしてまた、世代間ギャップ故に敢えて叱るべきを叱らずに我慢すべきかと言えば、私はそうは思いません。
例えば、拙著『仕事の迷いにはすべて「論語」が答えてくれる』(朝日新聞出版)でも述べたように、非常に穏やかな人物であったと想像できる孔子も宰予という弟子が昼寝をしているのを見て、「朽木は雕(ほ)るべからず、糞土の牆(しょう)は杇(ぬ)るべからず。予に於いて何ぞ誅(せ)めん・・・腐った木に彫刻はできない。汚れた土塀は塗りかえできない。おまえのような男は叱る価値すらない」と、殆ど罵倒と言っても良いぐらいの激しい言葉で叱責していたのです。
一方で、世代間で多少の違いが出てくるとすれば、それは怒る内容ではなく怒り方についてであって、昨年5月のブログ『人を育てる』でも指摘したように、先ず一つは千種万様な人間というものをある程度見極めて、そのタイプに応じて怒り方は考えるべきだということです。叱られている人間の性癖を全く考慮せず、単に怒鳴ってばかりいるだけで怒り方を考えないというようではいけないと思います。
また例えば、昔であればぶん殴っていたという怒り方は現代的には以ての外だというふうに皆が思っている中、そういう怒り方が許されるはずもないわけで、何処やらの柔道部のように無期限活動停止というようなことにもなりかねず、やはり之も駄目でしょう。
嘗ては教師が生徒にびんたをくらわすぐらい、ごく当たり前のこととして社会通念として認められていたことで、そういう教育者の一つの教育の仕方を是としていた時代もあったわけですが、今や暴力教師だとPTAが騒ぎ立てることも現にあるような時代ですから、当然その部分については世代間の相違があるということでしょう。
従って、そうした違いがあるにも拘らず、昔のやり方で同じように怒っていたのではまた社会問題化されるだけですが、かと言って叱るべきを丸で叱らずにいて良いというものでは勿論ないわけで、寧ろ如何なる方法で怒るべきを怒るかということを考えて行かねばなりません。




 

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