北尾吉孝日記

『人間の知恵というもの』

2014年3月25日 12:55
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人間の知恵というものに関して言うと、嘗て私は「今日の森信三(329)④」で「その人がどれほど前途を見通し得るか否かによって、計ることが出来るんではないかと思うのであります」という森先生の御考えをツイートしました。
あるいは「今日の森信三(22)」においては、「人間の知恵というものは、自分で自分の問題に気付いて、自らこれを解決するところにあるのです。人間は自ら気付き、自ら克服した事柄のみが、自己を形づくる支柱となるのです」とツイートしたこともあります。
之は、人間の知恵を如何なる側面から見るかという非常に難しい話だと思うのですが、知恵といった時に殆どの人が連想するのは知識と知恵とが混在しているケースであり、知識と知恵とがイコールであるかのように考える人が多いように感じます。
私にとって知恵というのは、知識をベースにして未来の事柄を如何にして推し量るかとか、あるいは直観力をどう働かせて様々な問題を処理して行くかといった具合に、知識を越えたものであり、学んで理解する「学知」とは異質なものです。
そしてまた、「徳慧(とくけい、とくえ)」というのも知恵の一つだと思います。あるいは仏教の中では「般若」と言われる概念があります。これは、一切のもろもろの智慧の中で「最も第一たり、無上、無比、無等なるものにして、勝るものなし」と説明されています。終局的には悟りに至る実践的な智慧と言っても良いかもしれませんが、そうした知恵というのは学知を越えたものだろうと思います(※1/※2)。
ちなみに、弟子から「どうやってあなたは悟りをひらきましたか」と聞かれたお釈迦様が「自分は六波羅密を実践した」と答えた、といった話も含め上記した徳慧や般若に関しては4年前のブログ『直観力と古典』でも詳述しましたので、御興味のある方は是非そちらも御覧頂ければと思います。
森先生は「人間の智慧とは、(一)先の見通しがどれほど利くか、(二)どれほど他人の気持ちの察しがつくか、(三)何事についても、どれほどバランスを心得ているか、ということでしょう」というふうにも言われており、単純に言えば勿論それは言い得ることなのだろうと思いますが、私としては人間の知恵というのはもっと大きなもので広範囲を包含するような気がしています。
例えば、クラッシックを聞くことで病的傾向を有している心を癒すということがありますが、私に言わせれば之も一つの知恵なのだろうと思われ、人間の知恵といった時その中には情操というようなものから生まれてくる知恵、というのもあるのではないかと思います(※3)。
人格というものを構成する要素として、学問・道徳・芸術というようなものが大きく言ってあるとすれば、夫々の究極の姿は真・善・美ということになり、そしてそれが調和した状況こそが孔子の言う「中庸の徳たるや、其れ至れるかな」(雍也第六の二十九)ということです(※4)。
これ正に、道徳の規範として最高至上である中庸の域に達するということでありまして、此の中庸の域に達した人から発せられる言葉あるいは行為においては、人間の知恵というのが満ち溢れているものだと私は思っています。

参考
※1:2014年3月20日北尾吉孝日記『老馬の智、用ふ可し
※2:2013年4月12日北尾吉孝日記『情意を含んだ知というもの
※3:2012年10月25日北尾吉孝日記『感性を高める
※4:2014年1月30日北尾吉孝日記『デジタルとアナログの境~過ぎたるは猶及ばざるがごとし~




 

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