北尾吉孝日記

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日経新聞に「イチローがイチローであり続けようとした14年シーズン」という記事が、先週月曜日にありました。
その中に、長らくヤンキースの象徴的存在であったデレク・ジーターに関してイチローが語った次の言葉、「やっていることに言っていることが伴っているから、人の心が動く。それは当然だと思う。聞いている人にそれが本物の言葉かは分かるでしょ? 人を見てきた人たちには。誰が言うかということが、ジーターは完全にできている。同じことを言っても、意味が変わるだけの蓄積がある」も載っていました。
此の「同じことを言っても、意味が変わるだけの蓄積がある」ということでイチローは、嘗ても米国での13年目のシーズンをに「結局、言葉とは『何を言うか』ではなく『誰が言うか』に尽きる。その『誰が』に値する生き方をしたい」と、あるインタビューで語っていました。
「誰が言うか」と「何を言うか」のどちらがより重要か、といった議論はこれまでネット上でも様々行われてきたものですが、私に言わせればどちらも大事であって、私の最大の関心事は常に「誰が何を言ったか」という点です。
その発言者を知っているか知っていないかで、次の関心事が変わってくることは当然ながらあります。私であれば知らない人の場合は、何を言ったかによってその人を知ろうとしますし、逆に知っている人の場合は、如何なるシチュエーションでそう言ったかが寧ろ気になります。
今月7日のブログでも司馬温公の分類例を挙げて指摘した通り、並外れた器量・力量・才能を有していながら小人とされている勝海舟のケース等々、何でも彼んでもダイコトミー(二項対立)にしてしまったりすると、何かそれで話が良く分からないようになってしまうケースが多々あります。
実際問題ダイコトミーでは必ずしも通じないのが此の現実世界というものであって、無理に分類する必要もないのだろうと思われ、上記してきた誰が言うか・何を言うかという議論についても、そうしたダイコトミーで物事を単純化し簡単に考えるべきではないでしょう。
やはり誰が何を言ったかという一つの判断を以て、そしてそれが誰の言かに応じて事を見、考えて行かねばなりません。前々から注目していた人であれば、「この人なら、こう言っても無理ないわ」とか、「あぁ、あの人らしい言い方だな~」といった反応にもなるでしょう。事程左様に物の見方・考え方は、その人を知っているか否かで全然違ってくるものです。




 

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