北尾吉孝日記

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『幸福論』で知られるフランスの哲学者・アラン(1868年-1951年)は、「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」と言っています。
此の言葉を以て、「悲観主義のほうが知性的であるとして重きを置く向きもありますが、アランはその深い人間洞察により楽観主義の本質を捉え、人の生き方に示唆を与えてくれています」と評する方もおられるようです。
しかしながら、東洋哲学の非常に深い意味を様々秘めている漢字というものを見た時に、悲観は気分で楽観は意志といったふうに割り切ってしまっては物事の本質は掴み得ない、というのが私の議論であって、率直に申し上げればアランの言も少し違っているのではないかと思います。
悲観の悲という字は中々難しく此の悲を使って慈悲という言葉もありますが、例えば安岡正篤著『易と人生哲学』(致知出版社)の中にも、之に関して記された次のような箇所があります。

『人間の感情の中で「かなしむ」という感情は一番本体的であります。たとえば仏教では「菩薩道の至極は何か」といえば悲だといわれます。悲しむという感情に慈愛が加わりますと、慈悲であります。そこで菩薩とは何ぞやということをひと言で申しますと慈悲であります。さらにこれを縮めていうなら悲、そこでその至極のものが大悲観音・悲母観音でありまして、母の母たる至極の感情は、子を悲しむことであります。そこで愛という字を「かなし」と読むのであります。
愛は悲しい。楽しい愛というのはまだ愛の究極ではなく、本当の愛は悲しい。ですから愛の化身である母は常に悲しむものであります。子供が病気をしたといって悲しむのはあたりまえですが、子供が出世をしたときでも、母は「あんなことになってどんな苦労をするだろうか」と悲しむ。人が喜んでいる時に母は悲しむ。これが本当の慈悲であります。だから慈愛より慈悲の方が深刻な言葉、本質的な言葉であります。』

子供に関する事柄にあって母親は何時も、ある意味楽観的でなしに寧ろ悲観的に杞憂とも思われるような形で徹底して心配するということで、とにかく愛すれば愛する程に気に掛かり心配するのが、ある意味愛の極致だと述べておられます。
要するに、何でも彼んでもダイコトミー(二項対立)にしたがる西洋的なやり方はある種の整理には適する一方で、整理し易いがため東洋哲学の深さというものを抜かしてしまい本質的なものを忘れてしまいがちです。
ある意味そう簡単に割り切れない悲観・楽観といった言葉であるにも拘らず、西洋人であるアランなども割り切った言い方をしてしまっているというわけで、東洋的思考に立脚する時「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」とは言い得ない難しさがそこにはあるのだろうと思います。




 

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