北尾吉孝日記

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言志四録』の第二十六条に、「立志は高明(こうめい)を要し、著力(ちゃくりょく)は切実を要し、工夫は精密を要し、期望は遠大を要す…志を立てるには、高い見識と知恵があることが必要だし、実際に努力するときは適切であることを必要とし、物事を考える場合は緻密でなければならない。そして、期待するところは遠大でなければならない」とありますが、率直に申し上げて之は志の出発点として少し違っているのではと思われます。
「志ある者は、事(こと)竟(つい)になる」「志易ければ足りやすく、足りやすければ進むなし」。理想を目指し到達しようとする心、それがです。の高さ・厳しさは様々ありますが、それにより自らを律する程度、あるいは努力しようとする程度が決まってきます。
此のとは、「我々人間は他の動植物の犠牲の上に生命を維持している」及び「人は他の人や社会との干渉なしには存在し得ない」といった二つの自覚により生じるもので、人は他によって生かされているという自覚から公のため生きるべきだとする使命感・志、自らの生き方になって行きます。
世のため人のため何かをしようという志を持つことは、此の社会に何らかの意味ある足跡を後世に残して行くべく公に仕えるということであり、必ずしも大会社を興すとか大発明をするとか大事業を残すといった類に限ったことではありません。
私がというのは、その生涯を通して次世代が良きものとなるよう何かを残すという意思、そしてその意思を遂行すべく挺身するということであります。例えば自らが産んだ子供が次の世代で活躍できる人物となるよう、性根を入れて育て上げるのも立派な志だと思います。
勿論この志を立てるにも知識も必要ですし知恵もある面必要ではありますが、佐藤一斎が言うように「立志は高明を要」すと最初から大上段を振りかざしては、そもそも志を立てることが出来ず中々次には進み得ないことでしょう。
やはり先ずは誰もがベターな方に向かうという状況にして行かねばならず、そしてその為に各人夫々が自分に与えられた固有の(めい)を引き出し発揮して行くといったふうに、宿命的なものを超えて努力によって運命を切り開いて行くということに繋げて行かねばなりません。
「運命だから仕方がない」という言い方をする人もいますが、此の運命とは命(無限の創造、限りなきクリエーション)を運ぶというのが本義であり、己の力で運命を切り開き確立して行こうするのが立命観というものです。
安岡正篤先生の言われる「東洋哲学の生粋」を学び、自己維新せねばならないとは当ブログでも昨年3月に指摘しましたが、此の自己維新するということは、心を尽くし本来の自己を自覚し(尽心)、天から与えられた使命を知り(知命)、自己の運命を確立する(立命)という一連の人間革命の原理を実践するものであります。
此の「尽心」「知命」「立命」というものの一つのプロセスを常に行い、自己を究明し維新して行くかが人間として生きる上での大きなポイントになると私は考えています。此の人生自分次第で変えられるところに良きところがあり、また人間とは日々これ新たにすることが出来る動物なのです。
孔子が「命を知らざれば、以て君子たること無きなり」(『論語』尭曰第二十の五)というように、天が自分に与えた使命の何たるかを知らねば君子たり得ず、それを知るべく自分自身を究尽し、己の使命を知って自分の天賦の才を開発せねばなりません。
そして、それを突き詰めて行く中で初めて立命の世界に入り得るものだと思います。佐藤一斎が「志を立てるには、高い見識と知恵があることが必要だ」とするのは如何なものかと感じます。




 

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