北尾吉孝日記

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『論語』の「衛霊公第十五の八」に、「与(とも)に言うべくしてこれと言わざれば、人を失う。与に言うべからずしてこれと言えば、言(げん)を失う。知者は人を失わず、亦(また)言を失わず」という孔子の言葉があります。
先ず、「共に語るべき人と語らないでいると、善い相手をとり逃がしてしまう」と書かれていますが、やはり言葉なしに「以心伝心」だけでは人と親しくなることは中々難しいでしょう(笑)。
言葉というのは人の間を取り持つ一つの手段であり、言葉を介し始めて双方の考え方あるいは人間性といったものが明らかになるわけで、之が皆無であるとすれば当然「人を失う」ことになります。
次に孔子は、「共に語る価値のない人と語っても、言葉をむだにしてしまうだけだ」と言っています。御付き合いするのは御免というような人と無意味な話を愚図愚図してみても、「言を失う」だけで仕方がないということです。
そして之に続けて、「聡明な人は良い語らいのできる相手を誤らないし、言葉の浪費もしないものだ」と述べているわけですが、では一体如何にして「人を失わず、亦言を失わず」というふうに出来るのでしょうか。
「共に語るべき人」と「共に語る価値のない人」の境を考えてみるに、それは品性が備わっているか否かで識別可能ではないかと思われ、胡麻ばかりを擂ってきたような人で品性が丸で感じられない人とは、私は御付き合いをしたいとは思いません。
安岡正篤先生の言、「人間の真価はなんでもない小事に現われる」とは全くその通りだと私は思っていて、その人の真価というか本質というか人格というか品性というか、兎に角その日その時のちょっとした立ち居振る舞いにその人の全ては必ず現れてきます。
スイスの有名な法学者、哲学者であり政治家であるカール・ヒルティー(1833年-1909年)は『幸福論』の中で、「人間の真実の正しさは、礼節と同様、小事に於ける行に表れる。小事に於ける正しさは道徳の根底から生ずるのである。之に反して大袈裟な正義は単に習慣的であるか、或いは巧智に過ぎぬことがあり、人の性格について未だ判明を与えぬことがある」と言っていますが、之は正に至言です。
あるいは、ピーター・F・ドラッカー(1909年-2005年)はその著書の中で、「経営者がなさねばならぬことは、学ぶことが出来る。しかし経営者が学び得ないが、どうしても身に着けなければならない資質が1つある。それは天才的な才能ではなく、実はその人の品性なのである」と言っています。
森信三先生も「人間の修養上、最大の難物」と述べておられるように、人間としての品性を高位に保つのは大変難しく、だからこそ平生の心掛けを大事にすると共に、必死になって学問修養をして行かねば、品性というものは決して磨かれ得ないのです。
最初から何ら得るものがないのが分かっているようなくだらない人と、何を話し合ってみても無価値です。品性の一欠けらも感じ得ない私利私欲の塊のような人と、幾ら話し合ってみても無意味です。人間、一番失くしてはいけないのが品性であります。やはり語らうべき人と語り合わねば、それはwaste of timeでありwaste of wordsです。




 

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