北尾吉孝日記

『誠とは?』

2016年5月11日 15:55
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西郷南洲公の次の言葉、「至誠の域は、先ず慎独より手を下すべし。閑居(かんきょ)は即ち慎独の場所なり」とは、前回のブログ『凡か非凡か』の結語で御紹介しました。西郷は、慎独が誠意・誠実・至誠といった域に達する為の非常に大事な修業になる、と言っています。
誠とは換言すれば、信と義を併せたものとも言えなくないです。私は之が如何に大事かを、これまでも当ブログ等で幾度となく指摘してきました。それはそれ程に大事だと思うからです。例えば『中庸』では、「誠は天の道なり。之を誠にするは、人の道なり」と厳(おごそ)かに説かれています。
あるいは、孟子は「至誠天に通ず…真心を大切にして誠実に事を実行すれば、その気持ちが天に通じ、よい結果が得られる」と言っています。至誠とは新渡戸稲造博士曰く、「広びろとして深厚であり、しかも、はるかな未来にわたって限りがない性質をもっている。そして意識的に動かすことなく相手を変化させ、また意識的に働きかけることなく、みずから目的を達成する力をもっている」とのことであります。
5年半程前、私は「今日の森信三(35)」で『誠に至るのは、何よりもまず自分の仕事に全力を挙げて打ちこむということです。すなわち全身心を提げて、それに投入する以外にはないでしょう。かくして誠とは、畢竟するに「己を尽くす」という一事に極まるとも言えるわけです』とツイートしました。
森先生は更に、吉田松陰先生の「至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり」という言葉を挙げられて、自分のすべてを投げ出していく必死の歩みがあってこそ誠は真の力となると言われています。此の「自分のすべてを投げ出していく」という姿勢は、志を立てるということとも関係してきます。
森先生は『修身教授録』の中で、志というものにつき触れられて次のように述べられています--人間はいかに生きるべきであるか、人生をいかに生き貫くべきであるかという一般的真理を、自分自身の上に落として来て、この二度とない人生を、いかに生きるかという根本目標を打ち立てることによって、初めて私達の真の人生は始まると思うのです。このように私は、志を打ち立てるところに、学問の根本眼目があると信じるものです。
志を立てるところから我々の人生は始まるというわけです。そして、その志は「二度とない人生を、いかに生きるかという根本目標」となるものです。それだけに志を立てることは、生半可な問題ではありません。志を立て誠を真の力とするのです。




 

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