北尾吉孝日記

『好悪の情というもの』

2021年5月20日 12:05
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先日Twitterを見ていたところ、秋元康bot(@yasushi_bot)さんの次のツイートがありました――定期的に嫌いな人に会う事にしているんです。なぜなら嫌いな奴というのは、自分に似ているタイプか正反対か、どっちかだからです。なぜその人が嫌いなのかを考える。すると、知らなかった自分の好みや信念を発見出来ます。
私はと言うと、「定期的に嫌いな人に会う事」は全くしていません。私の基本的な考えとして出発点は、人を好き嫌いで見ないということです。好きとか嫌いとかは関係なしに先ず一人間として互いに尊重し合い、そして夫々が自らを尊ぶ中で人と人との付き合いを行えば良いと考えています。
そもそもが、先入観として嫌いという感情が既に出来上がっている人に会う場合、一体何を得るものがあるのでしょうか。また、同じ人であっても日々変化していることを忘れてはなりません。例えば『十八史略』に「士別れて三日ならば、即ち當に刮目して相待つべし」という、中国古代史、三国時代の呉の武将の呂蒙の有名な言葉があります。
之は旧友の魯粛に対して言ったもので、「日々鍛錬している者は三日も会わなければ見違えるほど変わっているということ。転じて、いつまでも同じ先入観で物事を見ずに常に新しいものとして見よという意味」です。決して人を色眼鏡で見ることなく常に無の状況で相手と対峙し、その人を最大限理解しようと努める姿勢が大事だと私は思っています。
好き嫌いといった時、人間というのは一側面だけを見て非常に表面的な見方をしがちなように感じます。下段者は人物評価の目が養われておらず、上段者を理解出来ないのは仕方がないのですが、やはり好悪の情に囚われ人を評価するのではなく、好悪の別を出さない方が良いと思います。寧ろ「これは貴方の言う通り」「貴方これは間違っているよ」とかと、物事に関する評価を如何にして行くかに応じ人付き合いもして行くべきだと思います。
勿論我々は人間ですから、「この人のこういう性格は嫌」とか「この場面のこの考え方は嫌いだ」といったことにもなり得ましょう。しかし人間自体が複雑系であり夫々に良い所も悪い所もある中で、単純に好悪の情だけで割り切ろうとせず何時も統一体として様々な角度から捉えようとすべきでしょう。また取り分け上に立つ者は、「喜怒を色に形(あら)わさず…喜怒哀楽の感情を顔に出さない、つまり、いつも淡々と事態に対処する」(『三国志』)のが望ましいとされるように、基本的に好悪の感情を表に出してはなりません。
安岡正篤先生は御著書『知命と立命』の中で、「なんでも研究をしてみたら無限の意義、作用、効能がある。決して無用な物はない。“天に棄物なし”という名言がある。いわんや人間において棄人、棄てる人間なんているものではない」と述べておられます。
先生が言われる通り、神が創りたもうた人間に「棄人」はいないわけで、各々それなりの価値を有し此の世に存しています。ですから、正に「美点凝視」即ち「努めて、人の美点・良所を見ること」が大切なのです。人に会う時は、美点凝視を徹底し「人の美」(『論語』)を追求し、その人を統一的に再評価する機会とすべきだと思います。




 

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