北尾吉孝日記

『我を亡ぼす者は我なり』

2020年7月29日 16:05

「我を亡ぼす者は我なり。人、自ら亡ぼさずんば、誰か能く之を亡ぼさん」(修身)これは非常にいい言葉です。この一つだけでもつかみ得たなら、大したものだと思います。自己革新は、この「われ」にある。原因も結果も、自分自身にある。ローマを亡ぼしたのはローマです。日本を支えているものは日本です。健康で生き生きとした人生を送れるかどうかというのも、自分自身にあります。
上記は安岡正篤先生の言葉です。全ては此の「われ」にあるとは、正に言われる通りだと思います。世の中が悪いのでも、政治家が悪いのでもなく、先ず改めねばならないのは我々自身であり、個人です。先哲達は皆、洋の東西を問わずして異口同音にそう語っています。
安岡先生は東洋思想に基づいて、人物を磨くための4つの観点として、①しっかりとした「志」と「礼」を持つ/②全ての責任を自らに帰す/③直観力を養成する/④人間的魅力を高める、を挙げておられます。此の第二の「全ての責任を自らに帰す」ということは、東洋思想の根本です。
東洋では、己が修行をし、その上で周囲を感化できるようになると考えます。即ち、「君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む」(『論語』)、「大人(たいじん)なる者あり。己を正しくして、而(しこう)して、物正しき者なり」(『孟子』)という世界です。自己革新をし自己の徳性を高め、その徳性で他の人を感化して行くのです。
私自身、齢六十九まで唯々修養しようという気持ちをずっと持ち続けて今日までやってきました。そしてこれからも、何事があっても「天を怨(うら)みず、人を尤(とが)めず」(『論語』)の気持ちで、全てを自分に帰着させてやって行くしかないのだろうと思っています。
周りに責任を求める小人の在り様では、絶対に自分の革新は出来ません。自己革新は冒頭挙げた通り、自分でしか出来ないのです。その必要条件となるのが、中国古典で言う「自得…じとく:本当の自分、絶対的な自己を掴む」、仏教で言う「見性…けんしょう:心の奥深くに潜む自身の本来の姿を見極める」でしょう。
お互い人間というものは、自分の姿が一ばん見えないものであります。したがって私達の学問修養の眼目も、畢竟するに、この知りにくい自己を知り、真の自己を実現することだと言ってもよいでしょう――私が安岡先生と並んで私淑する、明治・大正・昭和と生き抜いた知の巨人である森信三先生は、『修身教授録』の中でこう述べられています。之が、自得・見性に相当するものではないでしょうか。
人間というのは、正に自らの意志で自らを鍛え創り上げて行く「自修の人」であります。ですから我々個々人が夫々に、自分で自分を修める人間となる覚悟を根本から打ち立てねばなりません。真に自修の人となるべくは、『日々の生活は、この「自分」という、一生に唯一つの彫刻を刻みつつあるのだということを、忘れないことが何より大切』(『修身教授録』)だと思います。そして自らを変え行く時、自得・見性が出発点になるのです。




 

昨年11月『致知出版社の「人間力メルマガ」』に、「優れた人材を得るための4つの条件(橋本左内)」が載っていました。『啓発録』で有名な幕末の先覚・左内ですが、曰く「第一に、人材をよく知る」「第二に、人材を養う」「第三に、人材を完成させる」「第四に、人材を活用する」ということでした。人物を得るべく、賢材を見出し育てて行き完成・活用に繋げて行くとは、全て左内が言っている通りだと私も思います。
但し完成を目指すことは大事ではありますが、他方どこまで行っても完成の域には達せないと思っています。例えば『論語』の「子罕第九の十一」に、「既に吾が才を竭(つ)くす。立つ所ありて卓爾(たくじ)たるが如し。これに従わんと欲すと雖(いえど)も、由(よし)なきのみ」と、孔子の一番弟子・顔回が嘆息して発した言葉があります。
之は、「私自身は出来る努力を尽くしているつもりなのだが、先生は高所にそびえ立って居られるかの様に私には感じる。出来れば私もその様な高みに達したいと思うのだが、まず無理であろう」といった意味になります。顔回が前に進んでも孔子は常々更に先に行っている、ということで完成は中々難しく、教育に携わる者の在り方が問われるものです。
あるいは、昔から人の使い方として「使用…単に使うこと」「任用…任せて用いること」「信用…信じて任せて用いること」とあります。また、人を育てるには山本五十六元帥の至言「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」にある意味尽きるとも言えましょう。更に、人物を得るに「上にある者、下の者と才智を争うべからず」「己が好みに合う者のみを用うるなかれ」等々、所謂「(荻生)徂徠訓」が大事なのは論ずる余地もありません。要するに、世に言われている上記類は蓋(けだ)し至言です。
難しい問題は、人を用いる者が指導者たる人物であるか否かということです。賢材を見出し育てようと思うならば、色々な形で自分自身でも人物を目指している人でなければなりませんし、その結果として様々な教養や考え方が身に付いている人でなければなりません。例えばモンゴルのチンギス・ハンが54歳の時、若干27歳の耶律楚材(やりつそざい)という逸材を見出せたのは、その風格・品格といったものを一瞬にして感じられる眼力が、彼に備わっていたからに他なりません。
兎にも角にも、人の上に立つ者は自分がそこまでの域に達していないとしても、一つの理想像を描きその理想像に近付くよう下の者を育てて行こうと一生懸命努力し続ける、ということも大事だと私は思っています。明治の知の巨人・安岡正篤先生が重視されていた『書経』の言葉に、「自靖自献(じせいじけん)…自ら靖 (やす) んじ自ら献ずる」というのがあります。之は「内面的には良心の靖らかな満足を求め、外に発しては世のため人のために自己を献ずる」といった意味で、此の「“靖献”は我々の人格生活上に実に適切な一語」だと思います。




 

『一に人物、二に能力』

2020年7月9日 15:10

以前あるインターネット調査で、「あなたご自身やあなたの生活にとって、現在、必要でないと思うもの」を問うた結果、1位「学歴」(28.6%)・2位「資格」(22.2%)・3位「車」(20.7%)・4位「生命保険」(14.0%)、といったものがありました。「学歴」で言うと、「男性の全年代で1位~3位、女性の全年代で1位~2位(中略)男女とも年代が高くなるほど必要としないと回答して」いたようです。
例えば私どもSBIでは、学閥・門閥・閨閥・性別・国籍等この類の全てを問いません。ですから入社時の私の最終面接では、「学校の成績がどうだったか」や「大学の出身はどこか」、あるいは「大学を出ているか否か」等々に触れることはありません。私が多くの人を採用し登用する基準は、一に人物、二に能力や知識です。能力を見る場合は、その人の持つポテンシャルが極めて大切だと思っています。
これまで身に付けた知識・経験を重視するというよりも、その人間がどれ程の伸び代を有しているかを何時も見ようと心掛けているわけです。学歴というのは、過去のものです。此の学歴に頼って何かを示すとしたら、ある程度のIQの高低、及び勤勉家・努力家か否か、といった程度でしょう。
世の中には、全く勉強しなくてもIQがとても高く、大変な潜在力を持つ人がいます。彼等彼女等に様々な動機づけを行って、仕事に対する意欲を持たせると物凄く伸びるわけです。そういう意味で私は、此のポテンシャルが非常に大事だと思っています。更には、決まった仕事を熟(こな)すことに秀ずる人がいる一方で、決まった所からどんどん食(は)み出て行くような世界の中で力を発揮できる人もいます。色々ありますが、之も言ってみればポテンシャルということでしょう。
私が挙げた上記2点に比して、学歴・資格・車・生命保険といった類は殆ど意味を為しません。何故かと言うと、それら全ては成功すれば時間の問題で得られるからです。昔から「売り家と唐様で書く三代目…初代が苦心して財産を残しても、3代目にもなると没落してついに家を売りに出すようになるが、その売り家札の筆跡は唐様でしゃれている。遊芸にふけって、商いの道をないがしろにする人を皮肉ったもの」と言いますが、之は人物が出来ていないからです。
非常に裕福な家庭に生まれ莫大な相続財産もある人は、言うまでもなく車や生命保険など容易く手に入るでしょう。また学歴もお金で買うか、家庭教師を一生懸命雇う等して得られるかもしれません。そして資格に関しても、資金や時間に余裕があれば専門学校にも通え、楽に取得できると思われます。
しかし事の本質は、人間力と成長のポテンシャルにあるのです。それらが不十分だと、車や生命保険あるいは学歴や資格が満たされても、何時その家が没落して行くかといった話になるでしょう。此の本質を見極めることが求められます。私は之こそが、結婚相手としても一番大事ではないかと思っています。




 


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