北尾吉孝日記

『知性の高い人』

2021年2月18日 16:10

アイルランド出身の作家・オスカー・ワイルド(1854年-1900年)は、「現代は労働過剰で教育不足の時代だ。人々は勤勉になるあまり、完全に知性を失っている」という言葉を残したとされています。あるいはレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年-1519年)などは、「何かを主張をするのに権威を持ち出す人は全て、知性を使っているのではなく、ただ記憶力を使っているだけである」との指摘を行っていたようです。
このように知性ということでは、偉人と称される様々な人が色々な言い方をしています。国語辞書を見ますと、知性とは「1 物事を知り、考え、判断する能力。人間の、知的作用を営む能力」「2 比較・抽象・概念化・判断・推理などの機能によって、感覚的所与を認識にまでつくりあげる精神的能力」と書かれています。
以下、本テーマで私が思うところを簡潔に述べて行きますと、先ず知性の高い人というのは言うまでもなく、英国社数理が非常に強い人を指している言葉だとは思いません。それは、私が私淑する安岡正篤先生の言葉を借りて言えば、「思考の三原則」に則って物事を考えられる人を指しているのでありましょう。
即ち、「枝葉末節ではなく根本を見る」「中長期的な視点を持つ」「多面的に見る」の三つの側面に拠って物事を考察できるということです。此の正しい考え方を身に付けた人は、かなりの程度物事の本質を見極められる知性の高い人と言えるのではないかと思います。
そして更には知性の高い人を仏教流に述べるとすれば、「徳慧:とくけい、とくえ」と言われる知が挙げられましょう。之は、仏教において一切の諸々の智慧の中で「最も第一たり、無上、無比、無等なるものにして、勝るものなし」と説明される、「般若」の智に通ずるものとされています。
終局的には悟りに至る実践的な智慧と言っても良いかもしれませんが、そうした知恵というのは、学んで理解する「学知」を越えたものです。「知行合一:ちぎょうごういつ、ちこうごういつ」を進める中で様々修行した徳性の高い人間にあって初めて得られる知恵であります。
こうした類は学力試験などでは全く計り得ません。学校の成績は一部学力を計る上での目安になるかもしれませんが、その人間が有する全人的な知力を計る上では、ほぼ役に立たないのです。私は、己を知り、人を知り、世のため、人のため、に活きるような知恵を身に付けた人でないと、本当の意味で知性が高い人とは言えないのではないかと思っています。
因みに、弟子から「どうやってあなたは悟りをひらきましたか」と聞かれたお釈迦様が「自分は六波羅密を実践した」と答えた、といった話も含め、徳慧や般若に関しては嘗てのブログ『直観力と古典』(10年3月1日)でも詳述しましたので、御興味のある方は是非そちらも御覧頂ければと思います。




 

『仕事で伸びる人』

2021年2月12日 15:30

半年程前、『テンミニッツTV』というメディアに『仕事で「この人は伸びる」と思われる人の特徴は?』と題された記事がありました。その特徴10点とは、①素直な心を態度で示せる人、②ポジティブ感情を生かしている人、③感謝の心を言動で表せている人、④目的に見合った情熱を持ち続けている人、⑤好奇心と向学心がある人、⑥数字に敏感で数学的思考ができる人、⑦「やると良いこと」の習慣化ができている人、⑧待機できる人、⑨仕事に関わる人と好情をはぐくめる人、⑩健康管理とメンタルヘルスケアができている人、とのことです。
私が仕事で「この人は伸びる」と思えるか否かは、パンツのゴム紐と一緒で伸びたり縮んだりする弾力性を有しているか否か、だと考えています。因みに国語辞書を見ますと、弾力性とは「思考や行動などの状況に応じて変化できる性質。柔軟性や融通性」と書かれています。
伸びる人は、余裕があります。例えば、ある大学の入試に同能力の2人が臨む時、一生懸命努力に努力を重ねてやっとの思いできた人と大して努力している様子もなく余裕綽々できた人がいたとします。結果として共に入学できたとしても、合格擦れ擦れで何とか選ばれた前者は、将来的に余り伸びないかもしれません。それは受験勉強の成功だけである種の達成感を得て、大学での勉強に対する意欲も無く、サークル活動やアルバイトに明け暮れてしまいがちなのではないでしょうか。
言うまでもなく仕事で伸びる人と思えるかどうかは、その人をどこまで長い目で見るかに拠るものです。初めの2、3年位で見れば余裕綽々できている方が早く伸びますが、之を10年のスパンで見ると分からない部分が出てきます。ずっと余裕綽々でくる人は要領が良いだけで本当の意味での努力をしませんから、結局次なる境地へ到達できないことがあるのもまた事実でしょう。
昨年7月、『一に人物、二に能力』と題したブログで私は次のように述べておきました――世の中には、全く勉強しなくてもIQがとても高く、大変な潜在力を持つ人がいます。彼等彼女等に様々な動機づけを行って、仕事に対する意欲を持たせると物凄く伸びるわけです。そういう意味で私は、此のポテンシャルが非常に大事だと思っています。更には、決まった仕事を熟(こな)すことに秀ずる人がいる一方で、決まった所からどんどんはみ出て行くような世界の中で力を発揮できる人もいます。色々ありますが、之も言ってみればポテンシャルということでしょう。
人の上に立つに、その人がどれ程の伸び代を有しているかを見極めねばなりません。ポテンシャル無き人に次を期待するは、中々難しいことです。之は、ある意味人の指導者になって行く役員にも当て嵌まりましょう。彼等彼女等が部下の時、出来が大変良かったかと言うと、必ずしもそうでもありません。例えば我々の生きた時代を考えてみても、小学校の秀才が大学時代も秀才であったという例は少ないような気がします。之は実に小器夙成(しゅくせい)のケースです。
小学校時代に親に尻を叩かれ猛勉強し天童とまで言われていたような人は途中で力尽きてしまって、上に行くに従い大した人物にはならず蓋を開けてみれば何か小さくまとまってしまうといったケースが多々あるように思います。それは要するにパンツのゴム紐と一緒で伸び切ってしまったら役に立たないのです。終局、「この人どこまで伸びるや分からんなぁ」という弾力性を常に持っていることが非常に大事になるのです。大器晩成型の人は弾力性があり、此の伸び代が大きいのでしょう。




 

『罪を憎んで人を憎まず』

2021年2月3日 15:00

Twitterを見ていますと、ここ1週間でも様々な社会ニュースを評するに、「罪を憎んで人を憎まず…犯した罪は憎んで罰しても、罪を犯した人まで憎んではならない」という(ことわざ)が使われています。他方「人を憎んで罪を憎まず」といった論調も予て同様あるわけですが、人間社会の基本的な在り方として私は「罪を憎んで人を憎まず」が非常に大事だと思っています。
世の中には、例えば一銭の金も無く腹が空いて堪らない人もいるでしょう。我国では何人(なんぴと)も「法の下に平等」であり「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と、日本国憲法の第14条および第25条に記されているにも拘らずです。
では、生活苦に追われた人が、ある店で何かを盗み結果として犯罪行為に手を染めた場合、その人は本当に悪人だと言い切れるでしょうか。普通の環境下にあれば、悪人とは思えない人かもしれないわけで、勿論その罪自体は問われるべきですが、そこにやはり情状酌量的な諸要素は有り得るのではないかと思います。
人間の社会というのは、所謂「情の世界」と「知の世界」のバランスの上にある意味成り立っています。そうした中で、知の世界だけで画一的に割り切って情状酌量の余地を排して行くような社会になると、私としては何か非常に冷たいものを感じます。また、嘗てのブログ『情意を含んだ知というもの』(13年4月12日)でも指摘した通り、様々な事柄が絡み合った人間社会という複雑系においては、割り切りの知すなわち劃然(かくぜん)たる知では何も解決し得ず、判断を間違うことにもなるでしょう。
知は渾然たる全一を分かつ作用に伴って発達するものだから(中略)、われわれは知るということをわかると言う。(中略)だから知には物を分かつ、ことわるという働きがある――明治の知の巨人・安岡正篤先生は、こう述べられています。
例えば、疒垂(やまいだれ)の中に知識の知を入れて「痴(ち)…愚かなこと。また、その人」という字が出来ていますし、此の原字は知ではなく疑問の疑を疒垂に入れて「癡(ち)」という同義の字であったわけです。劃然たる知は、やはり本当の知ではありません。
人間ややもすると情よりも知の方に重きを置きがちです。しかし、プロセスとして必要なのは論理で考えて行き、最終結論を下す前に情理(…単なる論理でなしに情と合わさった理というもの)で再考することです。人間の世界は所詮「喜怒哀楽の四者を出でず」(王陽明)、それぐらい情というのは大事なのです。
ですから、罪自体は悪であり一定の刑は認められるものの、「こういう事情があったか。初犯でもあるし、執行猶予を付けておこう」といったような判断が働き得るのです。そうした類が全く無い「人を憎んで罪を憎まず」の社会よりも、ぎすぎすしないことでしょう。故に私は、「罪を憎んで人を憎まず」が人間社会の基本的な在り方だと思っています。




 
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