北尾吉孝日記

『忙中に閑を摑む』

2020年4月22日 16:05

先々月9日、『ビル・ゲイツの成功を支えてきた「4つの習慣」とは?』と題された記事がフォーブスジャパンにありました。彼は「多忙な日々の中でも大切にしてきた習慣」の一つとして、80年代から年に2回程1週間の「考える週」を確保し続けてきているようです。
ゲイツ氏は「その期間は仕事をせず、家族との連絡も絶って、じっくり自分の夢や目標を見直し、気持ちをリセットする時間に充てている」とのことですが、私は何々を絶つとか期間云々でなしに、少なくとも週に一度ぐらい静かな環境に身を置くということは大変有意義だと思っています。
日頃「忙しい、忙しい」と言っているほど、私から見て忙しくない人が結構いるように思います。そうした類の人達は、真に向き合うべき事柄に取り組まず、詰まらぬ事柄をやり過ぎていることの方が多いような気もします。
「忙」という字は「心」を表す「忄」偏に「亡」と書きますが、そのような人々はある意味心を亡(な)くす方に向かっているのかもしれません。そしていよいよそれが高じて、睡眠不足になり鬱病になることもあるわけです。だから東洋哲学では、「静」や「閑」ということを非常に大事にしています。
例えば、明治の知の巨人・安岡正篤先生も座右の銘にされていた「六中観(りくちゅうかん):忙中閑有り。苦中楽有り。死中活有り。壺中天有り。意中人有り。腹中書有り」の第一に、「忙中閑有り」とあります。
」とは門構えに「木」と書くように、ある家の門を開けて入った先に木立があり、静かで落ち着いた雰囲気がある様を指します。つまり「閑」には「静」という意味があるのです。そして、そこに居れば都会の喧騒や様々な煩わしさを防ぐことが出来ます。だから「閑」には「防ぐ」という意味もあります。勿論、「暇(ひま)」という意味もあります。
安岡先生は「忙中に摑(つか)んだものこそ本物の閑である」と言われていますが、忙しい中でも自分で「閑」を見出して、静寂の中で心を休め、瞑想に耽りながら、様々な事象が起こった時に対応し得る胆力を養って行くことは必要だと思います。
あるいは、『三国志』の英雄・諸葛亮孔明は五丈原で陣没する時、息子の瞻(せん)に宛てた遺言書の中で、「澹泊明志、寧静致遠(たんぱくめいし、ねいせいちえん)」という有名な対句を認(したた)めました。
之は、「私利私欲に溺れることなく淡泊でなければ志を明らかにできない。落ち着いてゆったりした静かな気持ちでいなければ遠大な境地に到達できない」といった意味です。苛烈極まる戦争が続く日々に、そうした心の平静や安寧を常に保ってきた諸葛亮孔明らしい実に素晴らしい味わい深い言葉だと思います。
このように「静」ということは非常に大事です。ずっと齷齪(あくせく)しているようでは、遠大な境地に入ることは出来ません。時として自分をじっくり振り返り、あるいは何も考えないで唯々心を休める時間を持つことが大切なのです。
単に「忙しい、忙しい」で終わってしまうのでなく、もう少し違った次元に飛躍するため、「閑」を意識的に作り出して行き、ものを大きく考えられるようにするのです。ふっと落ち着いた時を得て心を癒し、短時間で遠大な境地に達し、それを一つの肥やしとして“Think Big.”で次なるビッグピクチャーを描いて行くことも出来るでしょう。
最後に、安岡先生の御著書『人生の大則』より次の指摘を紹介しておきます――我々はいろいろ本を読んだり、趣味を持ったりするけれども、案外人間をつくるという意味での学問修養は、なかなかやれないもので、とにかく義務的な仕事にのみ追われて、気はついていても人格の向上に役立つような修養には努力しない。少し忙しくなってくると、そういうことを心がけることはできにくいもので、地位身分のできる頃に、悲しいかな自分自身は貧弱になる。
「忙しい、忙しい」と言う人に限って自己修養をしていません。すると、自分自身の地位身分が出来た時に恥を掻(か)くことになってしまうわけです。将来嘆きたくないのであれば、忙中にも「」を見つけて自己修養せねばなりません。
人間の在るべき姿を求め、その目標に向かって修養・努力し続ける必要があります。『易経』に「天行健なり。君子は以って自彊(じきょう)して息(や)まず」とあるように、我々も日々やむ事なき努力を続けねばならないのです。




 

『列子』に「大道は多岐(たき)なるを以って羊を亡(うしな)う…大きな道には分かれ道が多い。だから逃げた羊の姿を見失ってしまう」という言葉があります。また西洋の有名な諺にも、「二兎を追う者は一兎をも得ず…If you chase two rabbits, you will lose them both」というのがあります。
省く・捨てる・消すといったことがちゃんと出来ないと「多岐亡羊」となって本質を見失い、結局どこに向かい何をしているか分からないようになってしまい兼ねません。それ故、一定の期間内に何が本当に良いものかを取捨選択する必要が出てきます。経営においても之は大事なことです。
米GE(ゼネラル・エレクトリック)元会長のジャック・ウェルチ氏は、所謂「選択と集中」の重要性を世に広めた経営者です。彼が成功裡にそう出来たのは、それだけ広大かつ多様な事業を有し、同時に業界のNo.1やNo.2事業を創り上げてきたからこそであります。
そのウェルチ氏が先月1日、腎不全のため84歳で死去しました。彼が経営者として君臨していた20年の間、GEの「売上高は250億ドルから1250億ドルに、利益は16億ドルから150億ドルに(、中略)時価総額は4000%拡大」したとされ、彼は「20世紀最高の経営者」といった称賛を一身に浴びてきました。
しかしウェルチ後の20年はと言えば、01年の「米同時テロの影響で主力の航空機エンジン事業が失速。後任のジェフ・イメルト氏は多角化路線の修正を余儀なくされ」、08年の「金融危機で巨額の損失が発生。メディア事業や家電事業を売却し、ウェルチ氏が育てた金融事業からも撤退したが現在も負の影響を残す」といった有様です。
同じ文脈で、日産自動車前会長のカルロス・ゴーンという人が挙げられます。彼は99年よりコストカッターとしての辣腕を振るい、結果として瀕死の日産を2年で「V字回復」へと導き、4年で2兆円の借金完済を成し遂げて、一時的に世に大いに持て囃されました。しかしそれから15年半を経て訪れたゴーン後の日産に対し、在任中彼がやってきた事柄に多くの知識人は今如何なる評価を下しているのでしょうか。
私は、本当に称賛を受けるべきは、「我より古(いにしえ)を作(な)す」べく自分で何かを創り上げ、それが五十年百年と長期的に発展するような仕組みを創り上げた人だと思います。しかし上記2名のケースは正に、自分の代が終わったら終わり、の典型であったと言わざるを得ません。報じられるゴーン氏の公私混同ぶりは言うに及ばず、彼らはそれ程の称賛に値しないと思います。
複雑系の現実で何が正しいかは、時々刻々変化します。企業や事業を取り巻く環境は常に変化しますから、企業の永続は難しいことです。ウェルチ氏は生前、「自らの成功は後継者の実績によって評価されると語っていた」ようですが、イメルト氏以後現在に至るGEの惨状はその評価を極めて厳しいものとしていましょう。
一時代でも世の中が大きく変化する中で、会社を如何に進化させ続け、何百年もの間永続させ得るか、と私はSBIグループ創業当初から真剣に考えていました。私が出した答えは、「自己否定」・「自己変革」・「自己進化」のプロセスを続けるしかないということです。
それが経営理念の一つにも掲げている、「セルフエボリューションの継続」ということです。此のスピリットは私がトップの座を退いた後も、我がグループの最も大事な創業の精神として永続化せねばならないと思っています。そして社会の公器たるSBIグループは真に徳業を営む中で、永続企業(ゴーイングコンサーン)として発展を遂げて行かなければならないのです。




 

『時務を識る』

2020年4月8日 17:30

今般の緊急事態宣言に伴い昨日行われた記者会見で、安倍晋三首相は次の通り述べておられました――今、私たちが最も恐れるべきは、恐怖それ自体です。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で広がったデマによって、トイレットペーパーが店頭で品薄となったことは皆さんの記憶に新しいところだと思います。(中略)ただ恐怖に駆られ、拡散された誤った情報に基づいてパニックを起こしてしまう。そうなると、ウイルスそれ自体のリスクを超える甚大な被害を、私たちの経済、社会、そして生活にもたらしかねません。
此の「2月末から全国に広がったトイレットペーパーの買い占め騒動に関し、ツイッター上の投稿と商品の販売状況を分析すると、(中略)デマ投稿をそのまま目にした人はほぼいないのに、デマ否定の(善意の)投稿が爆発的に広がるという皮肉な状況が生まれ(中略)、デマ否定投稿の急増と同時にトイレ紙の品不足が進んだ様子がくっきり現れた」とも報じられています。
デロイトトーマツコンサルティングの試算に拠れば、スペイン風邪流行時(1918~1920年)の「情報伝達力…メディアの普及率と人口、1度に情報を送れる平均人数、1人が1日に受け取る情報量を掛け合わせて算出」を「1」とした場合、新型コロナウイルス流行時の現在SNSの普及等によりその149.9万倍にまで達しています(2002年SARS流行時2.2万倍/2009年新型インフルエンザ流行時17.1万倍)。
此の一種の情報洪水下、嘗てより遙かにフェイクニュースは伝搬し、人に誤解を持たせたり虚偽を真実と思わせたりするような事象が、非常に増えてしまいました。取り分けインターネットで取れる簡単な情報で、所謂フェイクニュースが平気で流れています。しかし、その発信源に対する責任追及は実効性がないものです。我々は今回の上記騒動も踏まえ、その信憑性に疑義ある情報につき親切心に基づく否定投稿だとしても拡散しない、ということが大事になると思います。
何れにしろ、誰しもが真面な情報を如何に峻別して行くかが課題となっており、その選択で大変苦慮している部分がありましょう。此の取捨選択がきちっと出来ない限りフェイクニュースに振り回され続けるわけで、やはり自分で主体的にものを考え情報の真偽を見抜いて行く選択眼を持たねばなりません。
そのためには、時代の動きを明察し、時局を洞察し、英知と実行力を伴った見識(すなわち胆識)を以て如何なる事変にも悠然として処して行ける人物を目指す努力をし続ける必要があります。『三国志』の中に「時務を識るは俊傑(しゅんけつ)に在り」という司馬徽(しばき)の言葉がありますが、その俊傑に自分がなるしかないのです。深い洞察力で時代の流れをしっかり摑(つか)み、その中で何をすべきかを知る英傑を目指すのです。




 
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